離婚から7年後、元夫と復縁。切れても再び結ばれた赤い糸
結婚生活が、一生は続かない人が、急増している現代で、一度離れて、自分らしさを取り戻して、再び互いの良さを見つけ合う。一度切れても結ばれる、これこそ40代の〝赤い糸〟と思えたストーリー。
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◯ 話してくれたのは...居川はる子さん(仮名)
’75年大阪生まれ。短大生のときから事務所に所属し、モデル活動を始める。33歳で結婚、出産。36歳で離婚するも、40歳で元夫に再会し、43歳でパートナーという形態で復縁。
夫:’60年兵庫県生まれ。大学卒業後不動産会社に就職、25歳で独立起業。40歳で結婚するも45歳で離婚。事業は増収増益で、現在は社員100人以上の規模に。
来週、パートナーでもある元夫と9月に完成するマンションの最上階の家を、娘も一緒に内見予定。なんで復縁の方向になったのか、当事者である私たちがいちばん不思議ですが、収まるべきところに収まったのかな。
元夫とは20歳の時に出会いました。私はCMなどの広告モデルとして活動し、元夫は15歳年上の投資家。カッコよくて、経済的にも豊か。年上の渋さも加わって、とてもステキな人でした。でも私も若くて、六本木でよく遊んでいたし、恋人を1人に決めたくない気持ちもあって、別れたり付き合ったりを繰り返していました。
そうこうしているうちに元夫は結婚。もう終わった人と思いきや、私が32歳の頃に離婚し、再びちょくちょく会うように。30歳過ぎると、遊ぶことにも飽き、落ち着きたい気持ちも芽生え、そんな時、元夫が「結婚して子どもを持たないか」とプロポーズ。タイミングが合ったんですね、承諾すると、入籍前に妊娠し、33歳で入籍しました。
出産するまではとても幸せでした。財力のある夫は、家事もプロに任せればいいという考え方。食事も外食中心で、夫の仕事がない日は頻繁に温泉に出掛け、2人で子どもに会う日を楽しみにしていました。
ところがです。出産後も夫のそのスタンスは変わらず、育児はすべてベビーシッターに任せればいいと、子どもを置いて、夫婦でレストランに行きたがり、週末はホテルで2人で過ごすことが習慣になっていったのです。私は娘と一緒にいたいし、信頼できるベビーシッターとはいえ任せっきりは不安です。
夫は娘を抱っこもしない、おむつも替えない、全く可愛がりません。娘が泣くと、「うるさい」と露骨に嫌な顔をして、「泣かせるな」と私に怒りました。何よりも子どもを置いて出掛けることを拒否すると、喧嘩になり、毎日のようにもめました。
愛されているというよりも、恋人のような関係しか築けない人。そのうえ、私の友達がお祝いに来てくれると、「あんな友達と付き合うな」と悪口ばかり。自分と2人ならいいけれど、1人で近所に出掛けることも許されず、半端ない束縛の仕方で、今思うとモラハラの傾向がある人でした。
娘が生後4カ月を迎える頃、夫が「沖縄に旅行に行きたいから断乳しなさい」と。もちろん私は「ありえない」と拒否はするんですが、話し合っても言い負かされ、結局負けてしまう。仕方なく1週間ベビーシッターに預け、沖縄のプールでまだ出る母乳を搾って断乳。旅行に行ってもちっとも楽しくないし、なんでこんなことをしなきゃいけないのか、娘を思い出しては、泣いていました。断乳後は、「海外にも行けるね」と言い出して、もうあきれるばかり。この頃から、「離婚したい、夫なんて死ねばいい」と憎むような気持ちで、いつ逃げ出そう、でも働くことを禁止されていた私はお金もなく、鬱々とした毎日を過ごしていました。
新生児時代が過ぎ、娘が1歳になっても、夫の態度は全く変わらず、子どもの様子を気にすることもありません。子どもを愛せない人だと確信し、こんな父親と一緒にいたら娘はまっすぐに成長できない、何よりも3人ともダメになると思いました。当時私は36歳。友人に相談すると、まだモデルとしてやれると言ってくれ、離婚しても何とかなるだろう、一生懸命働こう、と離婚を決意。夫に「このままだと私、死んじゃうかもしれない」とちょっと大げさに告げると、「あ、そう。いいよ」とすんなりと離婚を受け入れました。
しかも予期していなかった、慰謝料をたっぷりすぎるほど振り込んでくれ、2人で暮らせる家まで用意してくれたんです。今思うと、感謝すべきことですが、その当時は、「このお金で、何とか2人で生きていける」ということしか考えていませんでした。
シングルマザーになってからは、「バツイチってこんなにモテるの?」というくらい、モテました。求婚されたこともあったし、今の時代、子どもがいても再婚の支障にはならないことを実感。それはバツイチ、子ありの友人みんな同じことを言います。何人かと交際しましたが、自分勝手で優しくない男性は懲り懲りで、無意識に、優しくて子どもが好きな男性を選んでいました。
でもそういう男性は大抵、経済的に豊かとはいえず……これは私の経験だけで言えることですが。だから再婚まで考える人には、結局出会えませんでした。でも、娘と2人、何とか暮らしていけるお金はあったので、楽しく生活をしていました。
元夫からは3年間は全く連絡がなかったのですが、娘が5歳の時、突然連絡があり、2人で食事に行きました。それ以降、忘れた頃にたまに会うと、娘については聞くけれど、会いたいという話にはならず、浮気や暴力と同じで、そこがこの人の闇。そういう病気みたいなものなんですよね。
それに反して、娘は成長するにつれ、元夫の顔をコピーしたようにそっくりに。ある日、それを元夫に電話で伝えると、「見たい」と言うので写真を送ったら、会いたいと。それ自体びっくりでしたが、その数日後、娘と一緒に友人宅に遊びに行った帰りに、タクシーの運転手として、私たち2人を迎えに来てもらったのです。そこで娘を見て、「改めて会いたい」と言うので、それ以来、月1の割合でわが家に遊びに来るようになりました。
最初はぎこちなさがありましたが、娘はパパという存在に憧れていたので、突然現れたパパにも、すんなりと馴染んでいきました。
私はと言えば、もともと人に反発したり、喧嘩をする方ではなく、元夫が15歳年上というのもありますが、「会わせたくない」という気持ちには一切ならなかったので、状況を受け入れました。でもその時、交際している年下の彼がいました。毎日娘の幼稚園のお弁当を作って持ってきてくれるような優しい人でしたが、アルバイト暮らしで経済力はない人。そんな彼がある日娘のことを叱ったんです。その時「なぜこの人に娘が怒られなくちゃいけないの」と腹立たしい気持ちになったのに、元夫が娘を叱っても全然腹が立たないんです。結局、その彼とお別れし、次第に3人でいることが心地よくなっていったんですよね。
コロナ前、元夫が「一緒に暮らそう」と提案。その頃には夫と娘は2人で出掛けるようにもなっていました。でも私は、最初の経験が忘れられず別々に暮らしているからこそ順調だと実感していたので、返事を曖昧にしていたらコロナ禍になり、娘が元夫と家を行き来するようになりました。もしこの時3人一緒に住んでいたら、外にも出られず、上手くいき始めた3人の関係が崩壊していたと思います。
コロナ禍で別々にいたことでお互いに対する思いやりが芽生え、より家族3人でいたいと思うようになったのです。
今は中学生になった娘に元夫がゴルフを教えたり、2人で映画を観たり、ときには3人でコンサートに行くことも。娘がいない時は2人で食事に行きます。結婚生活では、いつも夫婦でぎゅっと一緒だったけれど、今はそれぞれが自分の人生も楽しみながら、なるべくぎゅっと一緒にいないように心掛けています。私自身も、元夫ばかりがすべて悪いと彼を憎んでいたけれど、自分こそ歩み寄ろうとせず、自分勝手だったなと反省する気持ちも生まれてきました。
なぜあんなに娘を嫌がったのか、そこは聞けないタブーですが、今の父娘の仲の良さを見ると、単純に赤ちゃんが苦手だったんだと私なりに理解しています。
来週、内見に行って、自分の気持ちがどう動くかはわからないけれど、3人の未来は明るいな、と今は楽しみになっています。
取材/安田真里 イラスト/あずみ虫 ※情報は2020年1月号掲載時のものです。
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