平松洋子さんが考える、コロナ禍の「地元の食と私」

2020年10月12日発売の本誌『HERS』での記事を、このタイミングだからこそ、多くの人に読んでいただきたいと思い、再掲載させていただくことになりました。

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「店主の胸のうち」   文・平松洋子

日暮れどきの東京・西荻窪。夕刻きっかり五時。

創業昭和三十年の居酒屋「酒蔵千鳥」の軒先に縄暖簾を掲げるのは、二代目を引き継ぐ店主・沖陽介さん。この年季の入った縄暖簾をくぐるとき、私はいつも居酒屋の守護神に迎えられる心持ちがする。

しかし、春先から二ヶ月近く、縄暖簾が表に掛かることはなかった。コロナ禍中、四月六日から五月二十七日までの長い営業自粛。私の地元・西荻窪はあちこちに散在する個人商店で成り立っている街だが、一軒一軒、だれも経験したことのない現実と向き合い、もがいていた。

街とお客に愛される店がやむなく休業を選ぶ——その苦悩は、いくら想像しても足りないだろう。不安を抱えながら、沖さんは自身の胸中を綴り、店頭に貼りだして伝えた。

四月最初の「営業自粛のお知らせ」。

「毎日店を開けることが当たり前だと思って仕事をしてきましたが、今、当たり前のことができない状況になっていると感じています。営業を続け、多くの人が集まる場を作ってしまうことは 感染の拡大を増長してしまうことになるのではと思うようになりました。これまで変わらず店に寄ってくださったお客様には大変申し訳ないのですが、暫くの間営業を自粛させて頂くことにしました(後略)」

四月中旬、憤りも率直に綴った。

「営業を自粛してから数日が経ちました。国や東京都は未だにはっきりとした自粛要請も出さず、肝心の休業補償も出すふりをするばかりで確かなことはなーんにも決めてくれません。それで休んでもらいたいなんて。そんな不安の中ですが自粛を続けます(後略)」

以降五度、内容はそのつど変わった。お客に不便を強いていることへの申し訳なさ。短縮営業やテイクアウトに踏み切れない思い。連休明けに再開するつもりだったが、安全を考慮して延期……貼り紙が更新されるたび、私は立ち止まって路上で読み、ごまかしのない言葉に胸が詰まった。馴染みのあるお客は、店主の心の揺れを共有し、みな案じた。

当時を振り返って、沖さんは言う。

「休業中、ずっと考え続けていました。自分はなぜ酒場をやるんだろう。店を開ければ、お客さんに感染リスクを与えてしまう。でも、店を閉じれば、酒場という『場』を消すことになる。ジレンマは大きかった」

五月二十八日、再開に踏み切ったのは、自分たちができる感染防止の努力をしようと腹が据わったからだ。席数の削減、三人以上の連れは不可、入り口での手指のアルコール消毒、カウンター前のおでん鍋には飛沫防止の透明な板を設置した。隣席との仕切り板も脳裏をよぎったけれど、食事や酒を楽しむ場を分断するのは「居心地のよさを奪ってしまう気がして」、止めた。

いま、春ごろの緊迫感とは少し違う空気を、沖さんは感じている。

「店もお客さんも、お互いが注意してリスクを与えないよう、自然に気遣い合っています。存続の道を探る努力をしなければ、途切れてしまう文化がある。酒をめぐる文化を大切に残していこうという気持ちが生まれたことを感じます」

無言のうちに、店主やスタッフの切実な思いが伝わったからだろう。ただ、お客の反応はひとそれぞれ。

「暖簾から顔をのぞかせ、外から挨拶だけして帰る方もいて、ああ、みんなと楽しく飲める日を待っているんだなあ、と。いま足を運んでこない常連さんも、我慢しながら機を見計らっているのだと思います」

二ヶ月の不在をつうじて、みんなが痛感した居酒屋という場のありがたさ。この場をともに守らなければ、という気風が、「酒蔵千鳥」には芽生えている。昭和三十年から、いろんなことがあった。それもこれも黙って見てきた縄暖簾が、「酒蔵千鳥」の軒先で夜ごと風に揺れる。

世界中を震撼させるコロナ禍は、無慈悲に人間同士のコミュニケーションを分かつ。いっぽう、外で楽しむ酒や食事は、きわめて人間らしい安らぎ、息を吹き返すかけがえのないひととき。その場としての飲食店が標的となっていったん否定された衝撃は、いまなお生々しい。

今年十八周年を迎えた西荻窪「のらぼう」も、試練の波風を受けた。店主、明峯牧夫さんの料理は、畑や海や野山で育まれた素材の持ち味を十全に生かすピカ一のおいしさ。私は開店以来のおつき合いなのだが、「のらぼう」の味は年月を重ねるごと、ますます優しく、ますます切れ味よく、唯一無二の存在だ。

「のらぼう」の休業は四月一日から五月末まで、二ヶ月におよんだ。五月中旬、以前から行っていたテイクアウトでそろりと始動、これまで通りの営業再開は六月に入ってから。

「最初は二週間くらい休むつもりだったんです。ところが、みるみるコロナ禍が悪化していった」

予想もつかない展開だった。

「この状況下で自分にできることは、お客さん、スタッフ、家族、店に関わるみんなを守ることだと考えました。いったんひとの交わりを止め、退くべきだ、と。とはいえ、休業しても固定費は変わらず生じるから、みるみる資金は減ってゆく。この十八年、苦しいときも何とか乗り越えてきたけれど、今回は出口が見えず、計画が立てられないまま生き残らなければならない……恐怖でした」

明峯さんの本音は、すべての飲食店の真情を代弁するものだろう。

しかし、と同時に強烈な自覚を促されたという。五月半ば、テイクアウト「ウチノラ」を再開したときの、周囲の反応。

「待っていました、がんばってください、よく始めてくれた……自分ごとのように喜んでくださる声がたくさん耳に届いてきて、思ったんです。十八年夢中で走ってきて、この店はすでに自分たちだけの場じゃない、みんなの場でもある。いま店を潰したらお客さんは納得してくれない」

「愛されている」という抽象的な感覚ではなく、明峯さんが肌で受け取ったのは「必要とされている」という実感、あるいは責任の重さ。

六月に営業を再開するにあたって、席数を減らし、大皿で出していた料理はあらかじめ各自に取り分けて供するスタイルに変えた。入り口に消毒液を置き、テーブルや椅子まで適宜アルコール消毒するなど細やかな配慮を行き届かせ、場を維持するための努力を怠らない。

「本当に大切なことは何か、毎日突きつけられていると感じています。たとえ儲けは少なくても、多くを求めず、細々とでも店を続けていくことが一番大事なこと。そして、求めてくださるお客さんの信頼に見合う仕事をしなくては。飲食に携わる仕事の意味を見つめ直しています」

過酷な試練を生き抜く「酒蔵千鳥」と「のらぼう」。この状況下で居心地のよさを守るのは並大抵のことではないのに、二軒とも以前にも増して漂う空気が優しい。コロナ禍での人間の生き方を教えてくれている。

 

平松洋子(ひらまつようこ)
エッセイスト。1958 年、岡山県倉敷市生まれ。食文化と暮らしをテーマに執筆している。『買えない味』で Bunkamuraドゥマゴ文学賞、『野蛮な読書』で講談社エッセイ賞を受賞。 近著『肉とすっぽん 日本ソウルミート紀行』(文藝春秋刊)ほか著書多数。

 

酒蔵千鳥
東京都杉並区西荻南3-10-2
☎03-3332-7111
月~金 17:00~ 22:00、土 16:30~22:00
日・祝・ 第1土 休
※営業時間、休業日などは、2020年10月12日発売時点の情報になります。ご了承ください。

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食べごと屋のらぼう
東京都杉並区西荻北4-3-5
☎03-3395-7251
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月休
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※営業時間は変更している場合があります。
※2020年10月12日発売号掲載より

 

 

撮影/日置武晴 構成/松本朋子