【アーチェリー重定知佳選手】パラスポーツに全てを捧げた選手や家族の「パラリンピアン」STORY

障がいがあると「できない」「危ない」と思われがち。しかしパラリンピックでは障がいを感じさせない迫力あるプレーに歓喜するはず。耐え抜いた先に得るものがあると知っている選手たちは、新型コロナウイルスによる延期も〝プラス1年〟の力に変えました。何度も壁にぶち当たり、乗り越えて巡り合ったパラスポーツに全てを捧げた選手や家族の、試合では見ることができないSTORYを紹介します。

運命の出会い、練習環境など 引きの強さは断トツ! 練習で培った安定の引きで 「金メダルを目指す」

アーチェリー代表 重定知佳選手(38歳・林テレンプ所属)

「車いす=何もできないと思っていたから、自分の足で歩ける時は何が何でも歩きたかったんです」と話す重定知佳さんは、中学2年で両足がまひする難病を発症。歩行が困難になりました。 学生時代は引きこもっていた生活でしたが、就職して出合った車いすテニスが運命を変えるきっかけに。「職場の人に連れて行かれたのですが、そこで見た選手たちの迫力に圧倒されました。軽快に見えるのに自分はできなくて、それが歯がゆかった。元々の負けず嫌いに火が付きました(笑)」。
車いすに対するハードルが下がり、障がいも受け入れられるように。しかし、国内ランキング上位まで上り詰めたテニスは、若手の活躍により気持ちが継続できなくなり、30歳で引退。「刺激がなくなり、もう一度スポーツをしたいと思って見つけたのがアーチェリー。これはいけると手応えを感じました。天才肌ではなく、何度も繰り返すことが苦ではない自分に合っていたんです」と、32歳で出合ったアーチェリーに全身全霊で取り組む重定さん。初めは5mの距離から始め、’16年に出場した全国障害者スポーツ大会では、憧れの選手に遭遇しました。「リオ大会に出場した上山選手は私にとってスター選手。思わず声をかけてしまいました」。「自分のフォームを見てほしい」と指導を仰ぎ、翌日の試合では大会新記録で優勝。上山選手に「日本代表になれる」と言われたことで奮起し、翌年の初めての国際大会では、上山選手とミックスでペアを結成するまでに上達。上山選手との出会いが、その後の重定さんの意識を変えたのです。「真剣に東京パラリンピックの代表を視野に入れ、会社を辞めて所属先を探しました。’18年に林テレンプに入社し、練習に集中できる環境に変わったことは大きかったです」。一日6~7時間、ひたむきに練習ができることは重定さんの強みになっています。「的の中心に当てるには、フォームを完成させることが何より大切。その再現性が試合では求められるからつらくてもやるしかないですね。練習は裏切らない、それが自信に変わっていくから」。「練習は鍛錬」と言う重定さんもコロナ禍で練習ができない時は、「終わった」と悲観的に。「練習を4日以上空けたことがなく、一度全部壊れるなと思いました。でもアーチェリーに人生をかけたから、何とか家でできることを見つけ、気持ちが切れないよう心掛けました。悔いのないようパラリンピックでは金メダルを取りたい。有言実行で表彰台のてっぺんに立ちます!」。

    「試合は1対1の緊張感とその中にある駆け引きにも注目してください」。’19年アジアパラ選手権。ミックス戦で憧れの上山選手と銀メダルを獲得。
    的は直径122㎝。中心に当たれば10点。
    6年間で獲得したメダルの数々。
    的を確認するスコープには、親友から贈られた手作りの五輪のアクセサリーを付けています」
    三代目JSBの今 市隆二の写真集はコーチからのプレゼント。「コロナの期間は隆二の動画で一緒に筋トレをして、乗り越えました笑)」。
    「テニスやアーチェリーをして いる自分を、学生時代の同級生達は信じられないと思います」。

撮影/BOCO 取材/孫 理奈 ※情報は2021年8月号掲載時のものです。

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