スリッパの中にラブホテルの領収書。その時、妻の行動は

格好いい大人の女性に限って、自立しているためか何故か独身。そんな女性に聞くと、もはやどこで出会ってどうふるまえばいいかも分からないと言います。今月はそんな貴方のお手本になる40代のお話です。

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◯ 話してくれたのは...葉月里緒さん(仮名)

東京生まれ。大学で美術を専攻し、卒業後も母校で美術講師として勤務。’12年ステージⅢBの乳がん発覚。術前抗がん剤を6カ月、その後乳房再建手術を受ける。現在は仕事にも復帰。夫・愛犬と3人で幸せに暮らしている。葉月里緒奈さん似のハッとさせられる美人。

夫 山形県生まれ。医学部卒業後大学病院勤務を経て開業。犬と温泉が大好き。何事に対しても即決でいつも前進している。

私42歳、夫51歳のとき結婚相談所で出会って結婚しました。大学卒業後は母校の美術講師として長年勤務。’86年に男女雇用機会均等法が施行され、バブルまっただ中で、日本経済は豊かでした。26歳の頃から結婚したいと思っていましたが、そんな環境の中で、やりがいのあるキャリアを捨てて主婦として生きる覚悟はすぐには出来ないでいました。

また母との関係も結婚を躊躇する一つの理由でした。母は、子供の頃から私の行動に対して制約してくる人で、母に対して苦手意識がありました。恋人から家に電話がかかって来ても私に取り次がず切ってしまったり、家に連れてきても話もしないんです。結婚のチャンスもありましたが、理由なく反対され、結婚は家族同士のものだし、母が気に入らないなら無理やりすることはないと諦めていました

気が付けば三十路を過ぎ、このままだと一生結婚できないかもしれない、母から離れたいと思いマンションを買って家を出たんです。その頃から大学院にも行きはじめ、仕事と勉強に追われる日々を送っていました。

結婚相談所に入会したのは36歳のとき。婚活スタートです。でも会う人会う人しっくりくる人はいなかったですね。パーティに行っても楽しくないし、結婚に至るってこんなに大変なんだと実感。ところが高額な入会金を支払って入会したのに在籍は39歳までで、結局何の収穫もなく、籍がなくなってしまったのです。

一方、その頃からお腹を触ると硬くて何かあるのはわかっていましたが、見つかったら仕事に穴を開けてしまうからと、病院を先延ばしにしていました。今思うと何でこんなに仕事に一生懸命だったんでしょうね。でもお風呂でお腹が痛くなり、やっと病院に行ったときには、何とジャンボハンバーグ大の子宮筋腫が見つかり、子宮全摘になる可能性が高いと言われました

当時、結婚相談所が除籍になった直後に友人の紹介でお付き合いしている人がいましたが、病状を説明すると「君とは家族が作れないから別れよう」と言われました。もちろんそんなことを言う男はこちらから願い下げでしたが、結婚に臆病にならざるを得なかったですね。

その同時期に夫と出会いました。年収・学歴・容姿の審査があり、年齢制限なしの、社会的地位の高い男性中心の結婚相談所に入会。そこで初めての出会いが主人でした。外科医でバツイチ。銀座でランチをし、日比谷公園でベンチに座りながらおしゃべりをしたのですが、話が尽きなかったですね。

父でもない、友達でもない、兄でもない……この雰囲気こそ夫になる人だと思えました。そのとき、鳩のフンが落ちてきて、夫は「僕たちに運が付いたね。よかったら夕食も付き合ってくれませんか」と。普段着に着替え、恵比寿で夕食をしているときに病気のことを告げました。すると「君とだったら、子供が居なくても楽しそうな人生が送れそう。大丈夫だよ」と。私、泣きました。

それから2週間後に「死ぬまで一緒にいよう。大切にするから」とプロポーズ。主人は「明るくて面白いところが好きになった。僕にはないお洒落なところも」と言ってくれます。私はシンパシー、雰囲気、でも体格のいいところも好きでした。

その数日後に子宮筋腫の手術を受け、結果的に子宮を残すことも出来たのです。こうして42歳で結婚。長年の夢が叶いました。両親のように夫を支えたいと思っていたので仕事を辞めるつもりでしたが、夫が「楽しそうだから続けたら?」と言ってくれ、多忙な仕事を抱えながら結婚生活スタート。主人より遅く帰って、料理や家事は想像以上に大変。いい年して、大変と甘えられません。並行して子作りも。祖母が50歳で出産しているので母は「大丈夫。産めるわよ」と呑気で、自然妊娠で頑張りましたが、子供には恵まれませんでした

とにかく忙しい日々でしたが、幸せでした。ところが結婚6年目の47歳のとき人生最大の危機が訪れました。数年前から胸にしこりを感じながらも子宮筋腫のときと同様放置。忙しくて病院に行けない日々でした。ところが痛みを感じるようになり、大学病院の乳腺外科を訪れます。そこで約5㎝の乳がんが見つかり、それも両方にがんのある両側乳がんと診断されました。その頃はがん=死と考えていたし、リンパにも転移していたので致命傷だと絶望しました。

主人に申し訳なくて、何よりも足手まといになるのが辛く、離婚を申し出ました。そのとき主人は顔を赤くして、「君を見捨てない。いい治療法があるのなら外国まで行こう」と一緒に病と闘うことを約束してくれたのです。私、また泣きました。

急ぐように術前抗がん剤治療、同時再建手術と治療は進みます。腫瘍は大きかったですが術後の病理結果は良く、ひと安心。仕事も辞めました。

でもつい最近まで長期的にチャレンジしてはいけない躊躇があり、今日のことは今日という生き方をしてきました。私に希望を持たせるため、夫は養子をもらうことも提案。でも自信がなく、先のことまで考えられませんでした。

不安は抱えていましたが、体は日に日に元気になり、週1で非常勤講師として大学に復帰、日常が戻ってきた頃、なんと夫の浮気が発覚したのです。青天の霹靂でした。最初は夫の車の助手席に化粧品が落ちていました。主人に聞くと「なんだそれ」とぽんと車の外に捨てました。2度目はコンパクトが目につきやすい位置に落ちていました。これは私に挑んでるな、確信犯だと思いました。

こそこそ携帯をいじるようにもなり、「こそこそするのはやめて下さい」とだけ言って、あとは様子を見ることにしました。心の中は悶々としていましたが、夫を追い詰めたり、探偵を付けて突き止めたら、道は離婚しかない。もし愛人のことを私より大事に思うなら私に何か言ってくるだろうし、それはそれでしょうがない。主人が何か言ってくるまでは私から行動しないでおこうと思いました。

再発の不安に追い打ちをかけるように浮気発覚の辛さを抱えた時期は2年くらい続きました。ところが昨年秋、今度は車の中でいつも私が履いているスリッパの中にラブホテルの領収書が入れてあったのです。それを見たときスイッチが入り、夫に「明らかに侮辱だから許さないよ。ちゃんとしてね」そして「私に非はないので、あなたが出ていってください」と強い口調で言い放ちました

夫は何も言わなかったけれど、それ以来ぴたっとでかけなくなり、こそこそすることもなくなりました。もちろん家も出て行きません。そう言えば夫と結婚するとき、兄に「読んでおけ」と言われて渡された外科医の三カ条。1.片付けられない。2.ギャンブルが好き。3.女性も好き。うちの夫はどれも当たってます。これが頭に入っていたせいか、毅然とした態度で臨めたのかも(笑)。そして男は子供。おじさんですが自分の子供のように考えれば、しょうがないなあと気持ちも軽くなるものです。

私も病気から回復してから、パジャマでぶらぶらしないで家の中でもお化粧をして、美容に気を付けるようになりました。血糖値が高い夫の健康管理に気を配り、食生活ではお豆・野菜中心。野菜料理を3品用意し、主菜は後で出し、お腹いっぱいなら炭水化物は出さない工夫を。ご飯を食べるときはこんにゃくを忍ばせたりしています。胃袋を摑むと、妻として自信が持てます。

ご縁があって一緒になった主人。40代で結婚した私にとって、1人になるのは簡単だしラクかもしれませんが、2人でいる方が楽しいと思えるから一緒にいる。できる限り夫と一緒にいて、人生を楽しみたいと思っています。

取材/安田真里 イラスト/あずみ虫 ※情報は2015年掲載時のものです。

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