「夢なんてなかった」眞鍋かをりさんが、芸能人として活躍し続けられたワケ

「将来の夢がない」「目標はない」そんなお子さんを不安に思うママも多いのでは。実は、眞鍋かをりさんも、「将来の夢」を持たないまま、芸能界に足を踏み入れたと言います。

大学入学直前にスカウトされたことがきっかけで、芸能活動をスタートした眞鍋さん。初めは大学生の間だけのつもりだったそうですが、キャスター・女優・タレントとマルチに活躍し、今年で芸能生活25周年を迎えました。特に夢がなかった中で、芸能界という厳しい世界で自分らしく生き残れている理由を、眞鍋さんに伺いました。

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眞鍋かをりさんプロフィール

1980年、愛媛県西条市生まれ。横浜国立大学卒業。大学在学時からタレント活動を始める。24歳のときに始めたブログが人気になり「ブログの女王」と呼ばれるように。30歳からは海外一人旅が好きで、訪れた国と地域は20以上。趣味が高じてチーズとワインの資格を取得したり、最近は「鬼滅の刃」の推し活にもハマっている。現在は、テレビ東京「世界!ニッポン行きたい人応援団」レギュラー、TBS「ひるおび!」木曜日コメンテーター等で活躍中。

大きな夢は持ったことがなかった

――眞鍋さんは、将来の夢を抱いたことはなかったのでしょうか。

元々私は心の声が小さくて、「これがやりたい!」という気持ちが大きくなかったので、必然と周りに合わせることが多く、夢というのも持てていませんでした。あの頃、もうちょっと自分の心の声を聞けていたら、また違っていたのかな、と思ったりもします。

でも、夢はなかったけど、岐路に立った時にその都度自分の中で天秤にかけて、臨機応変に目の前のことをとにかく一生懸命やってきたことが今に繋がっていると思います。自分の中では結構色々考えて決めているので、進んだ道には後悔はありません。

人の目を気にしていた幼少期

――愛媛県で生まれ育った眞鍋さんですが、どんな幼少期だったんでしょうか? 

2歳下の弟、7歳下の妹がいたこともあり、生粋の長女気質でした。親の期待に応えることで自分が評価されていたので、嫌なことでも頑張っていましたね。今思うと、常に『他人軸』でしか自分のことを考えていなくて、知らない間に自分の気持ちを抑えて、周りの目を気にして生きていたんだと思います。

今でも覚えているのは、飛行機で見るCAさん(当時はスチュワーデス)に憧れた時期があって、そのことを母に伝えたんです。そうしたら、「スチュワーデスは背が高くないとなれないのよ」という答えが返ってきました。母は何気なく言った言葉だと思うのですが、「じゃあ私は背が高くないからスチュワーデスにはなれない」と思って、自分の中でその憧れをなかったことにしました。そこで「私は背が高くないからスチュワーデスにはなれないの?」という質問をしたら違っていたと思うのですが、それが幼い頃は言えなかったんです。

――地元の学校に通っていた中学・高校時代も人目を気にしていた?

そうですね。私は昔から漫画がすごく好きだったんですが、漫画好き=オタクというイメージが強く、そういう風に見られたくなくて、その時は漫画好きの気持ちに蓋をしていました。

高校時代は、東京への憧れが強くて、母から「一度は田舎から出たほうがいい」と言われたこともあって、大学で上京することだけを考えていました。放送部に入っていたんですが、そこでも部活のみんなでどうにかして東京に行ける方法を考えたんです。NHK杯全国高校放送コンテストで進めば東京に行ける!と思って、ライバルが少なくて出場できる部員の数が多い“研究発表部門”を選んで。見事に部員6人で東京まで行けたのは本当にいい思い出です。

NHK杯全国高校放送コンテスト出場のため、放送部の部員6人で愛媛から東京に来たとき。プレゼンの進行は私が担当しました(眞鍋さんは右から3番目)

人生で一番忙しかったのは大学生のとき

――大学入学直前、渋谷の吉野家を出たところでスカウトされたんですよね。

最初はカットモデルみたいな感じかなと思って始めたんです。就職までの間にやってたら、少しは就活に有利かも?と思って始めたのが本音です。元々芸能人は雲の上の存在で、自分がなれるなんて考えてもみなくて。でも、あっという間にテレビのお仕事をいただいて、映画やグラビアの仕事も入って、人生で一番忙しい時期でした。ほとんど学校にも行けず、仕事の移動中にレポートを書いて家でまとめて何とか単位を取っていました。

睡眠時間はいつも3、4時間で、苦しかったんですが、自分は学生と芸能界の2足のわらじでやっているんだからという気持ちで、忙しくてもなんとか頑張れていた時期でした。

――就活の時期に、芸能界以外に就職することは考えなかったんでしょうか?

就活の時期はちょうど就職氷河期で、周りの友達がことごとく就活で苦戦していたんです。その時に、就活するか、このまま芸能界でやっていくか天秤にかけて、安定はないけど、自分は4年間みんなよりも先に仕事して、ある程度お金も稼いできたし、就職は今はしなくてもいいかな、と思って就活もしませんでした。

2003年に、横浜国立大学教育人間科学部に入学。入学式のときに父親と。

大学1年の時に地元に帰った時 「仕事がものすごく忙しかった時だけど、地元に帰るとホッとしてました」(眞鍋さん)

大学2年の時に日テレの仕事でアメリカに行った時「モータースポーツの仕事で、裏方の仕事を経験させていただきました。いろんなお仕事をさせていただけたので、人生の引き出しになりました」

大学卒業式。「忙しいながらも無事4年間で卒業することができました。卒業の単位は最低124単位だったのですが、私はギリギリ124単位取れて卒業しました」

卒業後の低迷時代を経て、「ブログの女王」へ

――卒業後は、学生という立場がなくなり、仕事もそこまであったわけではなく、2年間は足踏み状態のような感じだったそうですね。

大学時代はものすごく忙しい生活をしていたので、卒業後は少し気が抜けた状態になっていて(笑)。もちろん焦った時期もありましたが、自分は学生時代に一生懸命お仕事してきたから、今は流れに任せて、無理せずやっていけばいいかなと言い聞かせていましたね。その時は、バイクの免許を取ってみたりと、普段やってこなかったことにも挑戦していました。

その後、niftyさんにお声がけいただいて、ブログを書き始めたのですが、単純に書くのが楽しくて、夢中で書いていたら人気になり、気がついたら『ブログの女王』と呼ばれるようになっていました。その後はブログが書籍化されたり、バラエティにも呼ばれるようになり、今に至っています。

チャンスを掴めたのは「臨機応変」と「好きなこと」のおかげ

――順風満帆な人生を送られ、常に夢に向かって突き進んでいるイメージでしたが、大きな夢を持ったことがなかったのには驚きでした。

今まで私は夢というものを持っていなくて、芸能活動を始めて夢を聞かれたときも、消去法でキャスターをやってみたいと答えていたのですが、高校時代放送部に入っていたこともあり、人前で話すことは好きだったし、台本を作ってきちんと読めた時はすごく嬉しかったんです。夢とまでは考えていなかったけれど、結果的にキャスターになりたいと発言したことで、それが現実してキャスターも経験させていただきました。

また、ブログも、元々私は文章を書くことが好きで、楽しいから続けていただけだったので、人気になったのは正直自分でも驚きでした。でも、好きだったから続けられたし、それがお仕事にも繋がったんだと思います。結局は好きなことって、やっていても苦じゃないし、楽しいから長続きするんですよね。今考えると、キャスターや文章を書くことを自分の夢と言っても良かったのかもしれないなと。夢というものは掲げたことはなかったけれど、その時々の岐路で自分はどっちの方向に行けばいいかは頭の中ですごく考えていました。そして、チャンスが巡ってきた時に運よく掴めたと思っています。

芸能界にいると、自分のやりたいことや大きな夢を持っている人たちばかりで、自分はできてない、馴染めないと思ったこともありました。でも、夢を持った人全員が叶うわけではないし、現実を見ると、報われないこともあるんですよね。「夢を持って頑張れば、夢は叶う」と無責任なことも言えないなと。結局は自分の好きなこと、得意なことがヒントになっていて、あとはその時その時で臨機応変に生きていけば、道は繋がっていくんじゃないかと思っています。

ワンピース ¥27,500(ELENDEEK) ピアス ¥38500(agete)
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撮影/夛留見 彩 取材/沢 亜希子 スタイリスト/関谷佳子 ヘア・メイク/里美

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