【岸谷蘭丸さん】「自分の目指すものが形になるまでは本名を出したくなかった」自らの力で人生を切り拓いた生き方とは?

「柚木蘭丸として活動してきましたが、岸谷五朗、岸谷 香の長男で、これからは本名・岸谷蘭丸を名乗ります」──。

難病の小児リウマチの発症、志望中学に入学する中での不登校、そして決心し踏み出した高校留学生活での孤独……。数々の人生の谷の中、自らの力で上へと昇ってきた自分に誇りが持てるからこそ、今発表に至ったという蘭丸さん。親の七光ではなく、自ら敷いたオリジナルのレールの上で踊る23年間の蘭丸さんの人生は、思春期の子を持つ母たちの参考になります。

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岸谷蘭丸さん profile

2001年生まれ。俳優・岸谷五朗さんとミュージシャン・元プリンセスプリンセス岸谷香さんを両親に持つ実業家。トキワ松学園小学校、早稲田実業学校中等部を経て渡米。海外の高校へ進学後、現在はイタリアのボッコーニ大学に在籍しながら、海外トップ大学受験の専門塾「MMBH」や海外大学情報Webメディア「留パス」を設立し、自らも学んだ「Liberty English Academy」と業務提携。動画配信も注目を集める。

小学校を卒業する頃は絶頂だった

物心ついた時は常に体調が悪い状態が僕にとっての〝普通〟でした。3歳の時に難病の小児リウマチを発症し、入退院を繰り返して幼稚園に出席したのは3分の1程度。卒園式で皆勤賞をもらう友達がどれだけ眩しく見えたことか。「僕も皆勤賞を取る!」それが目標でした。

病気のこともあり、理解のある私立小に入学。早退して病院に直行、週末は入院という日々で、母も僕につきっきりで仕事ができる状態ではなかった。9歳の頃、体力がついてきたこともあってか、新薬が効き急に体調が良くなったんです。「健常者って、こんなに元気なんだ!」と衝撃でしたね。皆と同じ生活ができ一番楽しい時期でした。

僕が通っていた小学校は、中学から女子校となるため男子はほぼ受験をする環境。それで、当然のように受験をしました。ちょうど僕が受験塾に通い始めた小学校5年生の頃、母は東日本大震災の復興支援で16年ぶりにバンド「プリンセス プリンセス」を再結成し、多忙を極めていたにもかかわらず、仕事も中受サポートも全力投球。中受は親子伴走して挑む戦いと言われますが、そんな母のサポートもあり、第一志望に合格しました。そして、夢だった皆勤賞も達成。小学校を卒業する頃は、人生の全盛期の一つでした。

不登校で堕落した中学生活

早稲田実業学校中等部を選んだのは「もうこの先勉強したくないし、共学がいい」という理由から。中学は友達も多く、めちゃくちゃ楽しかった。でも、授業を受ける意味や必要性が見出せず、昼休みに登校して皆でお弁当を食べて保健室へ逃げる。僕としては、ネガティブな不登校ではなく戦略的不登校だった。でも、食べて寝て運動もせずに堕落の象徴のように太っていました。両親も「志望校に入り学費も払っているのに何してるの?」と当然の反応でした。漫画やゲームにも飽きて暇な毎日を過ごす中、目標を失い何も努力をしない状態が怖くなってきた。

それで、自分自身や環境を変えたくて、中3の夏休みに「短期留学したい」と母にお願いしてセブ島へ。そこで世界の広さを知ったことが転機になったんです。このまま早稲田大学に進学し、ふわっと生きるか、もう一度本気で勉強して戦える人間になるか――、自分と向き合いました。「今の自分は理想とする自分ではない。できる、それを証明するにはやるしかない」。そう決意し、高等部への内部進学を辞退し、アメリカの高校に進学しました。

再起をかけ高校・大学は海外へ留学

高校の4年間は暗黒期でした。英語も話せず、僕が誰かなんて誰も知らない。圧倒的な孤独の中で、ゼロからのスタート。「世界のエリートと戦えるようになる!」そんな強い思いで中受の100倍勉強し、ここにいるヤツ全員に勝つ! と殺気立っていました。

大学受験1年目、アメリカの大学に合格しましたが、自身が納得できず、他大学に再挑戦することにしました。海外では日本のように〝浪人〟というネガティブな概念はなく、〝ギャップイヤー〟と呼び、大学進学前の自己探求の時間と捉えるんです。僕も、パンクしないために一度休憩をしようと思った。その時期に日本でインターンや家庭教師などをして人との関係性を学び、1年後にイタリアのボッコーニ大学に進学しました。

思春期時代の親友と起業

僕が大学に受かったことを耳にし、15歳の頃に毎日遊んでいた友人から、連絡がきました。彼は当時、いつも塾ではトップクラス。そんな彼が、「お前、やったな!」と僕のことを改めて認め、一緒に喜んでくれたんです。ちょうど大学入学がコロナ禍でもあったため、オンライン授業が主流となり、日本に帰国した僕は、久しぶりに彼と再会しました。実は、僕たちは年に一度ニューヨークで合流し、ステーキレストラン「ウルフギャング」で会っていたので、帰国後も日本の「ウルフギャング」でお互いの報告をしました。映像を手掛ける友人とは音楽が好きな自分との共通点も多く、起業話で盛り上がりました。そこから少しずつ動き始め、2023年の会社設立へと至りました。

とはいえ、最初は学生気分のノリで、いかにも〝スタートアップ〟や〝ベンチャー〟といったIT関連やアパレル、化粧品といった分野に手を出して半年ほど迷走し、失敗してお金も尽き、底辺を味わった。今まで知らなかった「千円を稼ぐこと」「千円の価値を提供すること」の難しさを知りました。

そこで、「何のためにお金を稼ぐのか」というところに立ち戻って考えたんです。社会のため、人のためになることじゃないと頑張る意味ないよね、というのが僕たち2人の共通認識だった。人を笑顔にしたお金で車を買いたいし、子どもたちの未来を切り拓いたお金でデートをしたい。それでモテたら、もっと最高! そして、それが一番気持ちイイ。

そんな折、You Tubeの人気インタビュー番組にゲスト出演し、浪人時代に学んだイングリッシュスクールの話をしたら、スクールの代表から「食事に行こう」と連絡がきたんです。70歳を越えるその人は、高級車に乗りピンストライプのスーツをビシッとキメて、今までの教育者の概念を覆す、〝カッコイイ〟と思える人でした。未だ現役の教育者であり成功者でもある代表の姿は、僕のロールモデルとなり、「やっぱり僕たちができることは教育じゃないか」と思えた。

まずは、自らの手で英語教育を変えたい

今は、このリバティイングリッシュアカデミーと提携した仕事をしていますが、それ以前にたくさんの下積みとなる経験をさせてもらいました。営業として訪れた際、取引先にダメージジーンズを穿いていって怒られて常識や言葉遣いを学び、その一方で40回も講座をさせてもらったおかげでパブリックスピーキングが鍛えられた。1年かけて今のメソッドに辿り着き、昨年の春からは、僕が味わった海外での挫折経験も活かし、オリジナルの事業を立ち上げ、海外トップ大学受験の指導塾「MMBH」と情報プラットフォーム「留パス」をスタートさせました。

今は、様々な留学相談に対し、僕自身が面談してアドバイスをしています。キレイごとは一切言わず、現実的な言葉を投げかけていますが、それに対して感謝の言葉をもらうとストレートに嬉しい。自分たちのサービスに誇りを持ち、社会的意義も感じています。自分の手で日本の英語教育を変えたい! 今、リアルにそう思っています。

子どもは案外、親の後ろ姿を見ています

僕がYouTubeやTik Tokを始めたのは、コロナ禍での大学生活に時間を持て余していたこともあるけれど、親と関係なく自分で自身の価値を育てなければと思ったから。そして先日、これまで「柚木蘭丸」と名乗っていた自身を、「岸谷五朗と岸谷香の息子、岸谷蘭丸」とカミングアウトしました。教育に携わる者として素性を曖昧にしてはいけないし、やっと機が熟したと思ったんです。そう、自分の目指すものが形になるまでは本名を出したくなかった。

僕の中学受験に向け伴走する中で起こった東日本大震災の折、母が「自分にできることは──」と問いかけ、プリンセス プリンセスを再結成し、復興支援ツアーに駆け回る後ろ姿を、僕は見ていました。その優しさとカリスマ性は、すごい。あの頃は思春期真っ盛りで、ミニスカを穿く母の姿が恥ずかしくて反抗的な態度をとることもあったけれど、母の集中力と体力を尊敬しています。

そして父は、俳優という仕事を続けるために30年以上一日1食、夕飯しか食べず、毎日ランニングを続けています。僕は、しっかり3食食べたいから俳優にはなれない。父を見てそう思ったものです。20歳を過ぎたら、親父をボコボコにできるものだと思っていたけれど、あと10年はできそうにありません(笑)。

今の僕がいるのは、仕事人としてのプロフェッショナルな顔と親としての愛情深い顔、その2つの顔を持つ両親の後ろ姿を見てきたから。

友人は、両親からよく「人に迷惑をかけるな」と言われていたけれど、僕は「人と違うことをしちゃダメ」と言われたことは一度もないんです。「人と違うって素晴らしいよね」と言われて育った。そして、僕が前へ進めず立ち止まる時、とことん考えて新しい選択をする時、父も母もいつも一人の大人として接してくれました。

僕、将来はスターになりたいんです。日本のために新しい価値を与えられる存在になりたい。だって僕はスターである両親の後ろ姿を見て育ったから。案外、子どもは親の後ろ姿を見ているんです。

とはいえ、両親のように企業に就職せず、自身の力で道を切り拓く生き方に、怖さを感じることもあります。今は、これまで必死で勉強してきた貯金でアウトプットしていますが、きっとそれもあと3年ほどで尽きるでしょう。3年間、とことん頑張って仕事をしたら、ニューヨークに戻りインプットのために大学院へ行こうと思っています。立ち止まることは、メチャクチャ怖いけど、無駄じゃない。何度も立ち止まり、その中で何かを摑み、今の自分がある。

再び帰国したら、「政治家になりたい」そう思っています。日本に役立つことをしたいから。そして、その先でスターになれたらいいな。

撮影/西崎博哉(MOUSTACHE)〈岸谷さん〉、魚地武大〈写真〉ヘア・メーク/シバタロウ 取材/小仲志帆 取材協力/港区立郷土歴史館 ※情報は2025年6月号掲載時のものです。

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