夏を前にママたちに生じる”焦りと苛立ち”の正体とは…【中学受験小説連載】
【前回まで】塾や講習会、模試と、予想を上回る中受への支出とシビアな現実に頭を悩ませる美典のもとに、玲子からスマホに着信が入る。「夫・翔一と元カノの不倫現場を目撃し、尾行している」というのだ。現場を押さえようとする玲子をやっとの思いで制する美典。何とか踏みとどまり帰宅した玲子だったが、夜遅くに帰宅した翔一をつい問い詰めて激しい口論になり……。
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不倫現場を目撃し、その晩遅くに帰宅した夫を問い詰めるが…【中学受験小説】
【第十六話】 小6・5月
新緑の息吹が溢れる、この季節がいちばん好きだ。あのマンションを買ったのも、五月だった。当初は青山や高輪あたりで新居を探していたものの、ピンと来る物件がなく、少し都市部から離れるけれど、と淡田に連れて来られたのがここだった。いま住んでいるマンションを、エレナはすぐに気に入った。
広々とした駒沢オリンピック公園の、青々とした木々が美しく、生命力に溢れていて、喧騒も遠い。こういう場所で人間らしく暮らしたいと思った。悪質なストーカー被害に遭ったこともあり、人が多すぎる都市部から少し距離を取りたかったこともあった。ここがちょうどよく感じられたのだ。
さくらも気持ちよさそうに歩きながら、時折エレナを振り返る。目尻を下げて口を開けたその笑顔を見て、エレナも微笑み返していたら、こちらを指さしている女性二人が視界に入った。目が合うと、その一人が駆け寄ってくる。
「すみません、尾藤エレナさんですよね?」
学生? いや、二十代後半はいってそうか。
「ああ、はい」
つばの広い帽子を被ってメガネもかけているのに。苦々しく思いながらもエレナは笑顔を作ってみせる。声をかけてきたほうが友達に、やっぱり、と言って振り返ると、その友達がスマホをこちらに向けた。勝手に撮らないでと言う間もなく、一言もなしに女子たちは足早に離れていく。呼び止めようかと思ったが、二人揃って履き潰した靴を履いているのが目に留まると、相手にするのも面倒になり、引き下がった。

最近はこういうのが増えた。声をかけて握手してほしいというわけでもなく、尾藤エレナだと確認できるとスマホで撮るだけ撮って去っていく。まさに撮り逃げだ。盗撮に近いような画像が、どんなふうに使われるのか知る由もない。たいていが家族や友達に見せて終わりなのだろうが、たいしてファンでもない、テレビに出ているだけの人間を撮って何が楽しいのだろう。
とはいえ、勝手に撮るなと詰め寄れば、感じが悪かったとどこかに書かれて拡散されかねない。SNS時代というのは怖い。有名税で済ますには代償が大きすぎる。
まあ、いいわ。気を取り直して、そばに停まっていたフードトラックでアイスカフェラテを買うと、おまけなのか、リコラのハーブキャンディが一つ付いてきた。これ、類が好きなのよね。エレナはそれをワイドパンツのポケットに入れる。
いつだって類を最優先で考えてきた。こういうところが評価されたんだわ。そんなふうに考えて、気分を上げた。

さっきお昼にスコーンを食べていたら、マネージャーの吉野から電話がかかってきた。今年のグッドマザー賞に選ばれたという報告だった。もっと早く声が掛かってもよかったくらいだと吉野は言っていたが、そのとおりだとエレナ自身も思う。レギュラーのラジオやエッセイでも子育ての話を中心に語ってきたし、『エレナ式マザリング 子育てじゃなく子育ち』だって、いまだ重版しているのだから、グッドマザー賞の候補として名前が挙がってもおかしくなかった。
その時の人気投票みたいなもので、タレントとしての箔がちょっとつく程度のものだから、どうしてもほしいわけではないが、選出されないとなると、何か理由でもあるのだろうかと勘繰ってしまう。そういうわけで、エレナは今回の報告を聞いて機嫌がいい。
ベンチに座って、さくらにおやつを上げる。オーガニックなデザインのカフェラテを手に持ち、それをスマホで写した。場所が特定されにくい背景になっていることを確認し、
──お散歩日和です
とだけ打ち、最後に太陽の絵文字を付けてXに投稿した。
インスタグラムも見ているが、尾藤エレナとわからないアカウントにしている。フォロワー数で人気の度合いが測れてしまうので、公式ではしたくなかった。
インスタグラムは読む専用で投稿したこともなく、謎の外国人のフォロワーが数人いるだけだ。いっぽうXの《アマディスのかおり》のアカウントでは中学受験以外のことも呟いていることもあり、フォロワーが1000を超えた。600ほどフォローしているので、たいしてすごくないのだが、尾藤エレナではない自分に反応をもらえることが嬉しい。類の成績を挙げると優秀だと讃えられるし、エレナのファイル整理術なども絶賛されたり中学受験の子を持つ保護者たちに真似されたりする。承認欲求が満たされるといえば、そのとおりだ。
グッドマザー賞に選ばれたと言いたいくらいだわ。もちろんしないけれど。心の中で思って、エレナは一人でクスッと笑う。類が六年生になったので鍵をつけてフォロワー以外に閲覧できないようにしようかと考えたが、毎日少しずつでもフォロワーが増えていくのでオープンのまましばらく続けていた。
「エレナさん?」
名前を呼ばれ、また撮り逃げの輩かと思って顔を上げたら美典だった。あら、とエレナは微笑んだ。
「お散歩……じゃないか」
美典が自転車に乗っているからそう言うと、沙優のお迎え、と美典は言う。
「きれいな毛並みのゴールデンレトリバーがいて、さくらちゃんみたいって思ったらエレナさんだった。そちらこそお散歩?」
「そろそろ帰ろうかなと思っていたところなんだけど、わたしも類を迎えに行こうかしら」
一緒に行く? という美典の言葉に、エレナはXの画面を消して、スマホをバッグにしまうと立ち上がった。美典は自転車から降りて手で押して歩き出す。
「毎日お迎えに行っているの?」
「ゴールデンウィークだけ。パートがないから」
「連休中はお店がお休みなの?」
「ううん、お店はやっているんだけど…… まあね、ちょっと」
なぜか美典は言葉を濁すのでかすかな違和感を覚えたが、そこは掘り下げずに、そういえば、とエレナは話を変えた。
「沙優ちゃんが類のクラスに上がったのって、三月のレビューテストだっけ? あのクラスは最難関の問題もするから、慣れるまで大変でしょう」
沙優が類と同じ、一番上のクラスに上がったと美典から聞いた時は驚いた。着々とクラスアップしていることは知っていたが、心のどこかで、一番上までは無理だろうと考えていた。沙優の実力をよく知らないのだから、そんなふうに決めつけるのはおかしなことで、つまりエレナは、沙優が類に並ぶことなどないと思いたかったのかもしれない。
「そうみたい。下のクラスに落ちないように食らいついているけど」
「沙優ちゃんは個別にも通っているんだっけ?」
美典は目を見開いて、まさか、と大きく首を横に振った。
「そんな余裕ないよ、いまの塾代だけで精一杯」
「じゃあパパ塾? それとも美典さんが教えてあげているの?」
「夫はノータッチ。最近になって、わたしがもっと手を掛けてあげないといけないんだって気づいて焦っているところだよ。類くんは優秀な家庭教師が見てくれているんでしょ? 玲子さんがエレナさん御用達のプロ家庭教師センターを教えてもらって助かったって言ってた。経済的に余裕があるお二人が羨ましすぎるよ」
それを聞いて、エレナの中に発作的とも言えるような苛立ちが生まれた。
「類は一度だけ下のクラスに落ちたことがあるけど、それ以外はずっとあのクラスで、美典さんにだから言っちゃうけど、上位三位を維持しているのよね」
「そうなんだ! すごいね」
「中堅に強いあの塾の上位三位といっても、たいしたことはないんだけど」
「そんなことないよ。沙優からも聞いたことがある。類くんともう一人の男の子、そして桜鳳中を目指している女の子、この三人は、一番上のクラスの中でもレベチだって」
それを聞いて発作的に生まれたはげしい感情の溜飲が下がったものの、それでもエレナは続けた。
「あの子もそのプレッシャーを感じているから、応援してあげたいの。塾の授業をこなすだけなら一人でできるのよ。ただ、最難関レベルの問題はテクニックを知らないと難しい問題もあるから、それでお願いしているだけ。どこを志望するかにもよるけれど、御三家を目指すような子は、自走できないとダメよね。手取り足取りで合格できても、入った後が大変だって聞くじゃない。沙優ちゃんも自走できるから、まだまだ伸びるだろうし、もちろん御三家を目指しているんでしょう?」
「御三家!? ないない」
「そうなの? 沙優ちゃんなら狙えるわよ」
戸惑っている美典に、エレナは悠然と微笑んでみせるものの、自己嫌悪に陥る。わたしは何をこんなにむきになっているのだろう。
いや、本当のところ、エレナは自覚していた。これは嫉妬だ。たいした課金もせずに成績を伸ばしている沙優を心のどこかで良く思っていない。だけど、なぜそんな感情が生まれるのかがわからなくて、エレナ自身も混乱する。
だって、沙優に嫉妬する理由なんてないはずだ。六年生になって、類は麻見谷中学校を第一志望にしたいと言うようになった。とにかく算数の問題が面白いから、こういう学校に通いたいのだという。麻見谷中学校以外で気になるところもすべて男子校だ。だから、戦う土俵が違う沙優を意識する必要なんてないはず、それなのに……。
塾の入っている建物の前に着くと、タイミングよく一階の出口から沙優が姿を見せる。
「沙優、こっち」
隣で美典が声をかけている。母親に気づいた沙優は、笑顔で手を振りながら駆けてきた。友達のように楽しげに会話する母娘を見ながら、もしかすると……とエレナは思う。嫉妬しているのは沙優にではなく、美典にたいしてなのかもしれない。
—
塾の前で、エレナと類と別れた。沙優のピンクのリュックを受け取ると、美典はそれを自転車の前カゴに乗せる。ゴールデンウィーク特訓となると、通常授業の時よりもさらにリュックが重くなった。塾通いをはじめることになって、どのリュックがいいのかネットで検索し、六年生になるとテキストが増えて重くなるので、ショルダーベルトが太いものがいいとありL.L.Beanのものにしたのだが、ここに来て正解だったと思う。買ったばかりの頃は大きすぎるように感じられたが、この二年で背も高くなり、テキストの量も倍増したので、いまではちょうどいい。たくさん入れられて背負った時に肩に負担がかかりにくいことはとても大事だ。
「算数の小テストはどうだった?」
「七点だった」
「三問間違いか。八割目指してって言われているから、もうちょっとだね。四則演算が何よりも大事よ。帰ったらまず小テストの間違い直し」
「はいはい。ところでママ、なんで毎日お迎えに来るの?」
早歩きの美典に合わせてほとんど駆け足になりながら、沙優が訊く。
「沙優一人だと、のんびり歩いて帰ってくるでしょう。時間がもったいない。ゴールデンウィークの過ごし方で、夏の天王山が変わってくるんだって。それくらい大事だから、無理を言って、パートも休ませてもらっているんだよ」
恩着せがましく言ったが、それは正確ではなかった。夕方からシフトを入れている大学生のアルバイトの子が、夏休みの旅行のためにたくさん稼ぎたいというので、それならと美典のシフトの枠を譲ったのだ。美典とて、教育費を稼ぎたいところだが、沙優のマネージメントに力を入れたいとも考えていたので、三連休は伴走に専念することにしたのだった。
急いで歩いたものだから、マンションに着く頃にはTシャツの背中が汗ばんでいた。
「沙優、パルムを買ってあるから食べていいよ」
「やったー」
「それ食べてちょっと休憩できたら、算数の小テストの直しからはじめてね」
エレベーターの中で念を押す。少しも時間は無駄にできない。
玄関ドアの鍵を差し込んだが開いたままだった。鍵をかけて出かけたから、洸平が開けっぱなしにしているのだ。美典が出る時には自分の部屋でパソコンを見ていたから、コンビニかどこかに行って帰ってきて、鍵をせずに中に入ったのだろう。
「ただいまー」
「おう、おかえり」
先にリビングに入った沙優と夫のやりとりが聞こえる。重いリュックを持って美典もリビングに入った。
「洸平、出かけて帰ってきたら鍵をかけるようにして。マンション内でも空き巣の被害が出ているって言ったじゃん」
「俺、出かけてないよ。あっ、さっき宅配便を受け取って、そのままだった。っていうか、すげーでかい段ボール箱が届いたんだけど、ほら」
洸平は顔を振ってソファの横あたりを指す。見ると、すげーでかい、と言いたくなるような段ボール箱だ。業者から届いたように見えない、いかにも素人がパッキングしたもので、そこで美典は思い出した。
「コピー機だ! もう届いたのね! 沙優、今日からコピーし放題だよ」
「ガチ? やばい」
満面の笑みの沙優とは真逆で、コピー機? と洸平は眉間に深い皺を寄せた。
「必要なのか?」
「中受の三種の神器の一つなのよ」
「三種の神器?」
「コピー機、ホワイトボード、過去問」
「だからホワイトボードも買ったのかー。コピーなんてコンビニで済ませればいいんじゃねえの?」
「うちから一番近いあのセブンだって、歩いて五分以上かかるし、面倒なんだよ」
「面倒ってさ」
「あなたは知らないけど、けっこうな量をコピーすることになるんだから!」
「ていうかさ、コピー機だって、もっと小さいやつが売っているだろ? デカすぎない?」
「家庭用の小さいコピー機はA4サイズしかないの。これから過去問もすることになるから、A3でもコピーできなくちゃ」
「これでいくら?」
「新品じゃないからね! 新品はすごく高いからいろいろ探して、中古で安くていいのを見つけたから!」
「安いって?」
「二万九千円。大丈夫、わたしの貯蓄から出している」
「べつに家計から落としてくれてもいいけどさ……こんなでかいの、どこに置くんだよ?」
「このあたり?」
テレビの横のスペースに立ち、いいでしょ? と美典は上目遣いでしなを作ってみせる。洸平はため息まじりに頷いた。
「コピー機はそこに置くってことでいい。でも、ここでストップな! このホワイトボードだけでも邪魔だったのに。オフィスみたいで落ち着かねえよ」
洸平が言いたいこともわからなくはない。でも、これは最低限必要なものなのだ。
中学受験に関するネットの掲示板で見つけた情報だ。三種の神器なんて、その掲示板にいる保護者たちの間では常識のようだった。それだけじゃない。膨大な情報がそこにはあった。同時に、美典はいかにこれまで自分が受験生の管理ができていなかったのか思い知らされた。世の中の母親、父親たちは、我が子の勉強がはかどるように驚くほど工夫している。すべては憧れの第一志望を手にするために。
「これ以上は買わないから安心して。それに二月までの辛抱よ。協力して。終わったら、全部フリマアプリで売るから。よし、沙優!」
「あーい」
パルムを食べていた沙優が、腑抜けた表情で返事する。
「さっさと食べて。そろそろはじめるよ」
美典はホワイトボードに書いたゴールデンウィーク中のスケジュールを確認する。今日塾でやったところの復習だ。算数は立体切断、国語は論説文、理科は水溶液、社会は文化史か。時間がかかりそうだ。明日は連休最終日だから、漢字テストと理科と社会の一問一答テストもある。ああ、時間がない。
(第十七話をお楽しみに!)
イラスト/緒方 環 ※情報は2025年6月号掲載時のものです。
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