カツセマサヒコ「それでもモテたいのだ」【タバコの「27番」だけを覚えている】

ガソリンの匂いやレンタカーの車

ガソリンの匂いやレンタカーの車内の匂いがたまらなく好きで、「共感値の低い鼻だ」とたまに言われる。みんなが好きだというキンモクセイはわざわざ香水にして持ち歩かなくても道でたまに香るくらいで十分だと思うし、他人に対しては流行りの匂いに身を包むことでその人自身の匂いが消えてしまうのが勿体ないとまで考えてしまうことがある(自分は流行りの香水つけてるくせに!)。

過去に知り合った女性がいて、その人は喫煙者だったのに、そうではないフリをしていた。初めて二人でファミレスに行ったとき、おタバコ吸われますか、と店員に聞かれて、彼女は確かに「いいえ」と言った。そのとき何度も「吸わないんですか?」「本当に?」と私が確認したのは、つまり、タバコの匂いが昔から好きだったからで。害しかないとわかっているから自分では吸わないし、副流煙はさらに体に悪いともちろん知っているし、読者の皆さんも編集部の皆さんもタバコはやめた方がいいですよと聖人のように言いたいけれど、たまに他人の吸うタバコの匂いがどうにも恋しくなってしまうときがある。

ある夏のこと。禁煙者だと言っていた前述の女性と居酒屋でビールを飲んでいたら、二杯目のグラスが空いたタイミングだったか、頼んでいた食べ物が全て出揃ったタイミングだったか、それまでテーブルの端によけていた銀色の灰皿を、彼女がおもむろに中央に寄せて言った。

「タバコ、吸ってもいいですか?」

え?吸わないって、言ってましたよね?

確認するまでに時間がかかったのは、もうその頃には彼女が禁煙者だとすっかり信じ込んでいたからだ。「すみません、嘘ついてました」それが二年半越しの「本当」だった。彼女は出会う前からずっと愛煙家で、でもそのことをこちらに言うのはどうにも後ろめたさがあったらしく、真相を言う機会も逸して、ここまでズルズルと来たらしかった。「ずいぶん前に、副流煙が好き、みたいなことをSNSに書いてたじゃないですか。あれ見て、うわー、吸ってるって言えばよかった、ってずっと後悔してました」

笑いながら彼女が取り出したタバコは、見たことのないパッケージのものだった。タール数がおそらく他の銘柄よりもかなり高く、ずいぶんいろんなタバコを吸わないと辿り着きそうもない銘柄に思えた。

慣れた手つきでタバコに火をつけると、少しして大量の煙が上空に上がった。吊るされた照明がぼんやりと白く濁って、その様子を二人で見ていた。「副流煙が好きって、ヤバいですよね。煙、かけます?」彼女が笑いながら言った。嘘をついていたのは彼女の方なのに、立場が悪いのは私の方に思えた。「いらない、いらないです。そんな、直接的じゃなくて、このくらいの距離がいいので」

なんだこの、性癖の詳細を答えるような返事は!と戸惑いながら、なんだか人の裸を見てしまったような恥ずかしさを感じつつ、それでもタバコを吸っているその指先から目が離せなくなっていた。

結局その夜、彼女は何本ものタバコを目の前で吸って、私はそれを肴に、酔いを回し続けた。終電が近づく帰り際、遅くまでやっているタバコ屋があるのだと彼女が言って、私もそこに同行することになった。深夜になっても蒸し暑さは消えず、街ごと湯に沈めたような夜だった。

タバコ屋に着いた彼女は、銘柄は言わずに「27番を二つください」とだけ言った。

あの夜から、なぜかその人とは徐々に疎遠になっていって、今ではSNSの近況報告すらもごく稀にしか見かけなくなってしまった。それなのに、どうしてか「27番」という数字だけは今もハッキリと覚えていて、肝心のタバコの銘柄は、わからないままでいる。蒸し暑すぎる夜になるとふと思い出してしまうのは、そんな長い間知らずにいた知人の小さな嘘と、自分のどうしようもない癖のことだったりする。

この記事を書いたのは…カツセマサヒコ

1986年、東京都生まれ。デビ

1986年、東京都生まれ。デビュー小説『明け方の若者たち』(幻冬舎)が大ヒットを記録し、2021年12月に映画化。二作目となる小説『夜行秘密』(双葉社)も発売中。

イラスト/あおのこ 再構成/Bravoworks.Inc