戸田恵子さん「仕事が忙しくなってきた45歳で母の介護が加わり、目まぐるしい日々でした」

よく通る美しい声と確かな演技力で、ドラマや舞台などで幅広く活躍している戸田恵子さん。いまや“女優”というイメージですが、実は『それゆけ!アンパンマン』のアンパンマンをはじめとするアニメの主人公や洋画のヒロインの吹き替えなどを担当してきた人気声優でもあり、女優として映像作品に次々と出演するようになったのは40歳からでした。そこにはどんな転機があり、どんな時間を過ごしてきたのでしょう? 66歳にしてまた新たな挑戦をする明るくチャーミングな戸田さんに、当時を振り返っていただきました。

▼後編はこちらから
戸田恵子さん「50歳になった時に、40代の過ごし方が活かされているなと感じたんです」

舞台からテレビへ、39歳で踏み出した新たな一歩

戸田さんは1957年、愛知県出身。小学5年生で地元・名古屋の児童劇団に入った当時から歌が得意で、スカウトされて上京し、16歳でアイドル演歌歌手・あゆ朱美としてデビューしました。しかし歌手としては上手くいかず、19歳の時に劇団薔薇座へ研究生として入団。その主宰者だった声優・演出家の野沢那智さんの紹介で始めた声優業で名を馳せていく一方、劇団の看板女優となっていきました。そんな戸田さんの大ファンだったのが、人気脚本家・演出家の三谷幸喜さん。出演公演の打ち上げ会場へ忍び込み、戸田さんに花束を渡したこともあったそうです。

「それが本当に申し訳ないことに、私は花束のことを覚えていないんです。三谷さんは『僕が女優さんに花束を持って行ったのは、あれが最初で最後です』とまでおっしゃっているのに、そんなことがあったような気もするなぁという感じで(苦笑)。今はもうすっかり大御所になられていますけど、三谷さんもまだお若くて、これからという時だったので、時間的にも余裕がおありだったんでしょうね。私が薔薇座を退団した後も舞台を観に来てくださっていたらしくて、今更ながらに本当にありがたいことだなと思います」

その三谷さんが書き下ろした連続ドラマ『総理と呼ばないで』(97年)へのレギュラー出演のオファーが舞い込んだのは、戸田さんが39歳の時。三谷さんのご指名による抜擢でしたが、戸田さんは最初、出演を辞退したといいます。

「ちょうど舞台の仕事と重なっていたこともあるんですが、要はテレビドラマという新しい場所に飛び込んで行く勇気がなかったんですよね。上手くいかなかったら皆さんに申し訳ないし、三谷さんの顔に泥を塗ることにもなってしまう。私は声優として生活できているし、舞台の仕事も十分満足してやれている。もう40歳になろうとしているのに、今から右も左もよくわからない世界に入って行ってオタオタするのは、みっともないなと思ってしまって。それで“今のままで大丈夫です”という感じで丁重にご辞退したら、その後、劇場で三谷さんと遭遇したんです。その時が初対面だったんですが、『戸田さんのことをよく見ている僕が書くんです。舞台系の役者さんもたくさん出ますし、心配ないですよ』と背中を押してくださって。そこまで言ってくださるなら思い出作りにやっておきましょうかという感じで、一歩踏み出しました。撮影現場では、監督とプロデューサーさんはもちろん、スタッフさんも誰一人として私のことを知りませんでしたね」

出会いと縁に導かれて

そのすぐ後に、三谷さんの映画監督デビュー作『ラヂオの時間』のオファーも受けた戸田さん。連ドラ初出演以降、テレビドラマへの出演も続き、『ショムニ』シリーズ(98年~)のヒットで、すっかりお茶の間でも知られた存在に。

「まさかそんな事態になるとは思ってもいませんでしたよ。まずは、三谷さんの作品でもない次の連ドラにも呼んでいただいたことに、びっくりしました。もしかしたら、こういう世界でやっていくことになるのかなとか、やっていけるのかなとか、いろいろな不安が湧いてきて、三谷さんにも相談したんです。そしたら、『それはもう戸田さんの力で呼んだ仕事だから、戸田さんが決めればいいんじゃないですか』と言ってくださって。
今振り返ると、最初の連ドラで知り合った監督やプロデューさんが、その後も呼んでくださったことでご縁が広がって、高橋克実さんのように、いまだに仲良くしている人がたくさんいるんです。大きな決断でしたけど、とても大きなご縁をいただけたということは、やるべき仕事だったんだなと今は思っています。三谷さんには、その後もいろいろ相談させてもらいました。そのうち『もう僕に相談しないでください』って言われちゃいましたけど(笑)」

一気に増えた仕事と母の介護が重なる40代

けれどその一方で、戸田さんの生活は一変します。

「不規則極まりない生活になりました。舞台をベースに声優の仕事をしてきたところへ、一気にテレビや映画の仕事が入ってきて、しかもドラマの撮影は朝早いこともあれば、深夜になることもあるので。そこへ45歳の時に母が病気になって、介護が加わりました。とにかく忙しかったですね。忙しい中でも1度うちに帰ってご飯を作って、また出かけたりして。友達はみんな『介護施設のショートステイとか利用したら?』って言うんですけど、うちは母子家庭で母一人子一人でやってきたせいか、母はとにかく私じゃないとダメっていう人で。それはそれで、ありがたいことではありましたけど、今思うと友達にすっごく愚痴ってましたね(笑)。そんな状態で舞台もやったりしていたので、どうやって暮らしてたんだろう!?と思うくらい目まぐるしい40代でした」

そんな戸田さんの支えは“喜んでもらえる”ことだったといいます。

「母がテレビでドラマを見て、喜んでくれたんです。出歩けなくなった母にとって、我が子がテレビに出ているのを家で見られるというのは、すごく嬉しいことだったんでしょうね。朝ドラや連ドラに出ている時は、その時間を楽しみにしていました。『次は何に出るの?』なんて聞いてきたりして。
もう一つの支えは、やっぱり舞台かな。特に、三谷さんの一人芝居『なにわバタフライ』と、永井愛さんの骨太な社会派作品『歌わせたい男たち』に出合えたことは大きかったですね。大変でしたけど、その日のお客さんの拍手や評判に支えられて、達成感みたいなものがすごくあって。そうやって、映像の仕事を始めてからも舞台をやめなかったことは、自分の大きな支えになりました」

約20年越しで叶った舞台共演

今も映像の仕事をしつつ、舞台にも意欲的に出演している戸田さん。上演中のミュージカル『20世紀号に乗って』では、増田貴久さん(NEWS)と連ドラ『ダンドリ。~Dance☆Drill~』(2006年)以来の共演を果たしています。

「まっすー(増田さん)とは親子ぐらい年が違うのに妙に気が合って、撮影の合間に音楽やダンスの話をよくしていたんです。その後もメールをやり取りしたり、彼が出ている舞台を観に行った後に一緒にご飯を食べたり、ずっと繋がりがあったんですが、また共演するチャンスがなかなかなくて。今回は、まっすーが主役のミュージカルだと聞いて、『もちろん出ます!喜んで!』とオファーをお受けしました。普段はアイドルとして活動している彼にとって、海外のミュージカルをやることは、大きな意義のあるチャレンジだと思うんですよ。そんなチャンスを得られた彼はとてもラッキーだと思うし、ようやく舞台共演が叶って私も本当に嬉しいです」

70年代にブロードウェイで初演され、2015年にリバイバル上演されたこの名作ミュージカルで戸田さんが演じるのは、大富豪の夫人レティシア・プリムローズ。

「豪華特急列車に乗り込んだ主人公にスポンサーを申し出る、大金持ちのファンキーなおばあちゃんで、わりとやりたい放題が許されるキャラクターなんです。『小切手に0をいくらでも足しますよ』なんて言ったり、普段できないことがいろいろあって、すごく楽しんでやらせていただいています。とにかく盛りだくさんの夢々しい作品です。出ずっぱりのまっすーを筆頭に、みんなですごい分量の歌とセリフに明るく果敢に挑んでいるので、たくさんの方に古き良き時代のミュージカルを楽しんでもらえたらなと思います」

<インタビュー後編へ>

ミュージカル『20世紀号に乗って』

1930年代初頭のアメリカ。落ち目の舞台演出家・プロデューサーのオスカー・ジャフィは、もう一旗揚げようと、腹心2人と豪華特急列車に乗り込み……。

演出・振付/クリス・ベイリー 演出補・共同振付/ベス・グランドール 出演/増田貴久、珠城りょう、小野田龍之介、上川一哉、渡辺大輔、戸田恵子 ほか。2024年3月12日~31日/東急シアターオーブ 4月に大阪公演あり。
https://musical-onthe20th.jp

戸田恵子/とだけいこ

1957年9月12日、愛知県生まれ。NHK名古屋放送児童劇団に小学5年生から在籍し、『中学生群像』(『中学生日記』の前身)で女優デビュー。77年に劇団薔薇座へ入団。79年に『機動戦士ガンダム』のマチルダ・アジャン役で声優として本格始動する一方、薔薇座の看板女優として89年の退団まで活躍し、同年の舞台『渾・身・愛』で紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞。97年以降は映像作品にも活動の場を広げ、97年の映画『ラジオの時間』で日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞。また05年の舞台『歌わせたい男たち』で読売演劇大賞最優秀女優賞を受賞するなど、幅広いジャンルで多彩に活躍している。

衣装/¥93.500ステファニア カレラ/三喜商事
撮影/源賀津己 ヘアメイク/相場広美(MARVEE) スタイリスト/江島モモ 構成・取材/岡﨑 香

おすすめ記事はこちら

介護をしない義姉が自由すぎてモヤモヤします【ジェーン・スー×HARUKOの人生相談Vol.30】

介護と更年期が同時に訪れた阿川佐和子さん「父に病院にいてもらうか、私が仕事を辞めて実家に帰るか、そんな状況に」

介護と更年期が同時に訪れた阿川佐和子さん「母に優しくなれたのは”うしろめたさ”があったから」

STORY