【中学受験・連載小説】本番まであと3ヶ月。“お試し受験”の結果が、ぎりぎりに張りつめた母たちに追い打ちをかける……
【前回まで】娘の沙優が「来ていない」との塾からの電話に、夜風の中、娘を血眼になって捜す美典。近くの公園に娘の姿を見つけホッとするものの、「ママが自由が丘国際みたいな学校で勉強してほしいって言うから……」という言葉にもやもやとした気持ちになる。一方、玲子は夜こっそりと部屋を抜け出し気分転換をする息子・真翔と、別居生活から突然舞い戻った夫が鉢合わせする事態に嘆息するのだった……。
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【中学受験小説】本番まであと4カ月。成績下降に塾の無断欠席…親子ともども満身創痍なこの時期に、見えてくるものとは
【第二十二話】 初冬
夏以降は瞬く間に時間が過ぎていく。やることも決めることも多い。
十一月。
いよいよ受験校を選ぶ。いまはほとんどの私立の学校がウェブで出願することになっていて、その締め切りが受験当日の朝としている学校も少なくない。つまりギリギリまで受験スケジュールを考えることができるわけだ。
ここまで来るとクラスが上がるとか落ちるとか、関係がない。ひたすら受験校の問題傾向を知り、対策していく。最終段階だ。
沙優の塾のスケジュールとしては、月水金に通常授業があり、土日に演習を解いていく特訓クラスがある。なので、塾のない火曜日か木曜日に過去問を解かせるようにしていた。採点するのは美典の仕事だ。丸付けをしていくにつれて、沙優が、何が得意で何が不得意なのかがわかるようになってきた。国語の記述問題は得意なのに、理科や社会の記述だとあまり書けていない。算数は思考力を求められるものが苦手のようだ。四則演算や図形は好きらしい。
沙優と問題の相性がいいのは、渓星大学第一中学校で、過去問を解いても最低合格点を超えることができていた。だけど第一志望の自由が丘国際学院には、かなり苦戦している。
「自由が丘国際は四教科どれも、難解な選択肢の問題が多いんだよ。とくに難しいのが算数だな。複雑な思考力を必要とする応用問題が必ず出されていて、そこで合否が分かれる」
というのが弟、夏樹の解説だ。
「勝負はここからだ、姉ちゃん。脳科学的にも最後の一、二カ月に爆上がりすることが証明されてるんだから」
そのとおりだろう。
真面目な娘がひたむきに頑張ってきたのだ。何としてでも成功させてあげたい。そのために湯島天神で合格のための祈禱も受けて、強くお願いしてきたものの、境内には受験生の保護者らしい人で溢れていた。受験生の親はみな同じ気持ちなのだと思ったら、こちらの祈りが届いているのか不安になってしまった。
十二月。
九月からはじまった怒濤の模試もフィナーレを迎える。この先に受ける試験は本当の入試だ。
最後の模試の結果。
第一志望の自由が丘国際学院の一回目は、40パーセントだった。はっきり言って、微妙なところだ。
偏差値は夏以降緩やかに落ち続けている。沙優がサボっているのではない。受験生みんなが本気を出してきているだけ。
「ぜったいに落ちちゃうよね。こんなにやってるのに……」
「そんなこと言わないでよ。模試は模試でしかないんだから」
「そうだけどさ……」
年の瀬が迫る頃になると、沙優は弱音を吐くことが多くなった。この子のメンタルがもつのだろうか。
一月。
あまりにも沙優のことが心配で、美典はついにパートまで辞めた。香代さんとの関係は気に入っていたので本当なら休みをとりたいところだが、それも迷惑な話なので潔く決断した。あまりにも沙優の受験に関わりすぎていると洸平は難色を示したが、そんなのは無視だ。
受験生には大晦日も正月もない。年が明けるとすぐに埼玉受験がはじまる。都内の学校を受験する子のほとんどが、練習として一月に行われる埼玉県か千葉県の学校を受ける。
その中でも多くの受験生が挑戦するのが、埼玉県の進学校である埼玉境学園だった。一般コースと特進コースがあり、沙優は一般コースを受験する予定だったが、一月になっても沙優のメンタルは危なっかしく、篠崎先生から回避するよう勧められた。
「埼玉境が不合格だった場合、二月までにメンタルのリカバリーができない可能性があります」
だけど、本番の空気になれておくことは必要なので、沙優の実力ならよほどのことがないかぎり合格できるところを受けてお守りにしようということになり、ある女子大の長野県にある系列女子校の首都圏受験に出願した。
よほどのことがないかぎり……そう思って安心していた受験の前日の夕飯後のことだ。お風呂に入ると浴室に行った沙優が戻ってきた。
「お母さん! どうしよう!」
その先を聞く前に、美典は察しがついた。初潮がはじまってしまったようだ。そこからはてんやわんや。ナプキンの付け方を教えて、お腹が痛くなった際の薬を用意した。
そんなふうにして迎えた、一月十五日。市ヶ谷にあるその女子大のキャンパスで受験し、十八時には合否が出た。
結果は、合格だった。
桜が舞う『合格』のページをスクショした画像を何度も眺めては、沙優はにやにやしていた。お守り校というが、そのとおりだった。その合格をきっかけに、沙優のメンタルは安定するようになった。
「親が思っている以上に『合格』というのは嬉しいものです。子供にとって最高の勲章になるんですよ。喜び合ってください」
篠崎先生は言った。
「そうなんですね」
「それで、いただいたお電話で申し訳ないのですが、出願校の確認をしてもよろしいですか」
「もちろんです。第一志望は自由が丘国際なので、二月一日の午前と、そこがダメだった場合の二回目受験である二月四日の午前はすでに出願済みです」
「一日の午後校は優華学園で、変わりはないですか?」
「変わりないです」
いまの沙優は啓明セミナーの模試で偏差値60前後をうろうろしている。それ相当の偏差値で惹かれる学校がいくつかあるものの、リスクを冒さずに確実な合格をもらえるところを受験するのがいいと篠崎先生に勧められ、優華学園の本科コースを受けることにした。
優華学園の本科コースは偏差値52。ボリュゾの代表格の一つで年々受験者数が増えている。リスクを冒さないと言いながらも、正直、安全牌と言い切れないのだが。そもそも安全牌なんてないというのが、いまの中学受験だ。
「普段の沙優さんの力を出せれば、優華学園は大丈夫でしょう。どちらもその日のうちに合否がわかりますから、自由が丘国際の一回目がダメで、優華学園が合格だったら……」
「その時は、二日は青明女子の二回目にトライしてみます。万が一、優華学園も不合格だったら…… あまり考えたくないですけど、横浜アマデウス学園にしようかなと」
優華学園の合格があれば、偏差値65の青明女子の二回目に挑めるが、ダメだった場合は、優華学園よりもさらに偏差値を下げた学校を受けることになるだろう。
「わかりました。それで、二月三日は渓星大学第一の二回目を受けるということで、変更はなしですね?」
「はい。沙優としては、優華学園よりも渓星が好きみたいで、一日午後の優華学園が取れていても受けたいようです」
「もしも前日に青明女子の合格がもらえていれば?」
「渓星は受けないかもしれないけど」
美典は言葉を濁した。
ここが難しいところで、偏差値的には青明女子のほうが渓星大学第一よりだいぶ高い。とはいえ、まったくカラーが違う学校だ。女子校で進学校の青明女子、共学で大学附属の渓星大学第一。美典としては青明女子に通わせたいと思うが……。
「最後に、二月四日の自由が丘国際の二回目ですね。わかりました。手堅い受験スケジュールだと思いますよ。頑張りましょう」
「どうぞよろしくお願いいたします」
篠崎先生との電話を切って、ふう、と息を吐いた。
スケジュールを確認できたら、ぐっと心が軽くなった。いまの美典にとって、篠崎先生は命綱のような存在だ。たかが塾、されど塾。まさかこんな気持ちになるなんて、何となく入塾したあの頃には想像もしなかった。
いつもの習慣でスマホのネットニュースを開く。ありふれたようなニュースをスクロールする指が思わず止まった。
『フリーキャスターの尾藤エレナさんが自宅付近で女に刃物で切り付けられ、都内病院に搬送。軽傷で、命に別状なし。通りがかった男性が犯人を確保し、警察が事情を聞いている』
「噓でしょう!」
思わず叫んだ。
エレナさんが、そんな事件に…… 軽傷とあるけれど、大丈夫なんだろうか。『尾藤エレナ』で検索してみると、さらに驚くことに、その事件とは別に、違うことでエレナはバズっていた。
Xのある匿名のアカウントが尾藤エレナのものだと何者かに暴露され、拡散されているようで、それをネットの住民たちが特定している。エレナの裏アカウントらしきXでポストされている画像の部屋と、淡田が出演した『あの人のオフタイム』で映っていた部屋が一致しているのだ。
『埼玉境の特進コースに特待で合格したってさ。はいはい、優秀な息子w』
『鉄アカの模試で65超えたって喜んでたけどたいしたことなくね?』
『この人って子供の自主性に任せますって言ってたよ? 手をかけまくってんじゃん』
美典はエレナにメッセージを送ることにした。
【美典】ニュースを見て心配しています。大丈夫ですか?
—
玲子は美典から電話をもらって、エレナの事件を知った。彼女が匿名で作っていたらしきXのアカウントが問題にもなっていて、それが今回の事件と繫がっているのかもしれないらしい。
「刃物はカッターナイフで、エレナさんの手に軽傷。そばにいた息子に危害なし…… だって。玲子さん、どうしよう」
「類くんもそばにいたんだ…… 心配ね」
「めちゃくちゃ心配だけど、いま連絡しても……」
「まだ病院かもしれないし、警察にもあれこれ聞かれているでしょうから、しばらくそっとしておきましょう。それに、ごめん。こっちも切羽詰まっていて、それどころじゃないっていうのも正直なところで」
「あっ…… だよね。ごめん、電話しちゃって。あまりのことだったから」
それじゃあね、と美典の電話を切り、玲子は隣にいた真翔に向き直る。
「類くんママ、どうしたの?」
「変な人に襲われたみたいだけど、軽い怪我で済んだって。たぶん、大丈夫だと思う。で、どこまで進んだ? まだそれだけ? もっと早くできるようにならないと、本番では時間との勝負なのよ?」
「お母さんがいるとよけいできないんだって」
真翔は苛立ったように頭を搔き回す。一月から学校も休んでいて、塾で特訓か家で過去問をする日々だ。ストレスが溜まっているのだろう。
「集中したいからあっち行って」
玲子は真翔の部屋を出て、改めてエレナの一件を調べてみた。そのアカウントは消されていたが、すでにまとめサイトが作られている。優秀な息子の自慢、そしてモラハラ体質の夫への不満。
最後のポストは、埼玉境の特進コースに特待で合格したというものだったようだ。自慢したくなる気持ちはわからないでもないが、正直なところ、無神経だと思わなくもなかった。
真翔も特進コースと一般コースを受験して、一般コースだけ合格。特進はダメだった。自分の子供が誉れ高い結果を摑んできたら、言いふらしたくもなるだろう。しかし当然ながら、その裏で涙を飲んでいる人間もいるのだ。エレナなんて公人なのだから、そこは踏み外してはいけないはずなのに。
エレナのことが気になるが、他人の心配をしている場合ではない。慶應の三校とも、真翔は合格と不合格を分けるラインの上にいた。
—
「まさか犯人が近所の住民だったのは驚きですね」
病院から帰宅の途に着く車の中で、マネージャーの吉野は後部席のエレナに言った。
「本当に、Xの《ひよどりママ》ではないのよね?」
「警察に確認しましたが、本人が完全に否定しているようです。何のことかわからないと」
《ひよどりママ》は港区あたりに住んでいたようだし、今回の犯人ではないのだろう。それはそれで、複雑な思いだ。
「ネットでもニュースになっているんだよね。このカッター事件のことも、Xのアカウントのことも」
怖くてスマホを触ることもできない。
「まあ、はい。事が事なだけに、事務所から公式に発表しておきました」
「悪いわね、いろいろと迷惑かけて」
「エレナさんは被害者です。Xの一件はエレナさんらしくない行動だと思いますけど、別に犯罪をおかしたわけじゃないですから。裏アカなんて、みんな持ってるもんですよ」
「そうかもしれないけど」
「そのうち落ち着きますって」
吉野は優しく言ってくれるが、『尾藤エレナ』の商品価値は暴落だろう。事務所の社長にも顔向けできない。
だが、誰よりも謝らなければいけないのは、類だ。先に帰宅した類は疲れて寝たと、吉野経由で淡田から連絡をもらっていた。
「わたし…… 何をやっているんだか」
まさか、こんな事態に襲われるなんて。
今日の十六時頃のことだ。類が塾に行くのに合わせて、エレナは買い物に行くために一緒にマンションを出た。一階でエレベーターを降りて、エントランスからマンションの敷地内の道に出た。向かいから黒い服を着た女が歩いてくるのは見えていた。
第六感というものだろうか、なぜかエレナはその女を意識的に見ていたように思う。だからこそ、近づいてきた女の、その右手に何か持っていることに早く気が付くことができた。それがカッターだとわかった瞬間、エレナは類の腕を摑んで離れようとしたのだ。奇声を上げて襲いかかられたが、無防備ではなかった。
とはいえ、手の甲に硬いものが当たるのを感じて、恐怖のあまり足がもつれて地面に尻餅をついてしまった。そばを通りかかった男性が駆けつけて、その女を取り押さえてくれたのは僥倖というべきだろう。
その瞬間を思い出して、エレナは身震いする。手に持っていたモンクレールのダウンコートを見ると、裾が擦り切れていた。
あの女の恐ろしい鬼のような形相…… 脳裏に焼き付いて離れない。そんなに恨まれるようなことを、自分はしたのだろうか。
「犯人ですが、娘さんが中学受験で失敗したのをきっかけに引きこもっていたようなんですよ。同時に夫のDVがはじまって中学受験に恨みを持っていたと言っています。エレナさんのXの投稿を見てカッとなったって。とんだ逆恨みですよ。今回でエレナさんがあのマンションに住んでいることは知れ渡ってしまったし、引っ越しも考えたほうがいいかもですよ」
「ああ…… あんなアカウントを作らなきゃよかった」
もうやめるって決めていたのに…… 本当に愚かなことをしてしまった。
《ひよどりママ》を警戒して、しばらくXから離れていたエレナだったが、類が埼玉境学園の特進コースで特待生合格をもらい、嬉しさのあまりにポストしてしまったのだ。
――埼玉境の特進コース特待合格でした!
末尾に桜のマークを三つもつけて。自慢したかったというより、ただ嬉しかった。誰かにいいねと言ってもらいたかった。それだけだった。
「僕から見たら、何てことないポストなんですけどね。合格したって報告でしょう? いいじゃんって感じ」
吉野はそう言うが、それは部外者だからだ。不合格になっている子の親が見れば不愉快でしかないだろう《ひよどりママ》の息子の合否は知らないが、エレナがポストした直後に、尾藤エレナの裏アカウントの存在があると拡散されたのだから、だいたい察しがつく。
いまこの瞬間、『尾藤エレナ』はどれだけの人間に敵意を向けられているのだろう。嫌われ、誹られ、疎まれているのだろう。
それを考えると怖くてたまらなくなる。
(第二十三話をお楽しみに!)
イラスト/緒方 環 ※情報は2025年12月号掲載時のものです。
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