【中学受験小説・最終回】「たかが中学受験なのにね」卒業式の日、ママ友たちが辿り着いた結末は……。

【前回まで】不合格――。慶應の幼稚舎の不合格から6年間、ひたすら慶應を目指し、息子の真翔に伴走してきた玲子は、スマホに映し出されたその三文字に、自身の中の何かが切れるのを感じる。いつの間にか疲れて眠ってしまった玲子は、夫・翔一に起こされ、真翔が「期待にこたえられなくてごめん」と書き置きを残し、家からいなくなっていることに気づいて……。

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【中学受験小説】「期待に応えられなくてごめん」そう言い残し子供が向かった場所に、母の背筋が凍る……。

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【最終回】エピローグ 卒業式

春の陽気が先走り、例年よりも早く桜が開花した。卒業式が行われる土曜、小学校の正門の脇に並んだソメイヨシノは、八分咲きの薄桃の花々をたわわに広げている。

美典は洸平とともに体育館に入り、後方に並べられている保護者席の空いているパイプ椅子を探すが、すでに半分以上が埋まっていてなんとか並んだ二席を確保する。

「だからもう少し早めに来ようって言ったのに」
「しょうがないだろう。電話がかかってきたんだから」

家を出る間際になって洸平の上司から電話がかかってきて、歩きながら話せばいいものを、騒音を気にしたのか自分の部屋の中でしばらく話していて、学校に到着するのが遅れてしまった。しかもこの後、洸平は仕事で会社に向かうことになった。沙優は卒業式の後、クラスのみんなとでランチすることになっている。

「美典さん!」

どこからか名前を呼ばれ、美典は辺りを見回す。前方の真ん中あたりにいた玲子がこちらに向かって手を振っているのが見えて、美典も手を振り返した。玲子に気づいた洸平も頭を下げた。

「真翔くんの進学先、落ち着いたんだっけ」

洸平は小声で訊いてくる。

「翔一先生のご両親の猛反対を受けたようだけど、大学は慶應を受けることを条件に何とか許してもらったみたい」
「目黒工大なんて最高じゃん。俺の後輩にも何人か出身のやつらがいるけど優秀だよ」
「真翔くん、理科が好きだっていうから合っていると思う」

男子校に詳しくなかったので偏差値表を確かめてみると、目黒工大は自由が丘国際学院中とさほど変わらないほどの高偏差値で美典は驚いた。それほどの難関校に合格できたにもかかわらず、祖母や母親に認められず、見知らぬマンションの階段を上っていった真翔の気持ちを想像すると、いまでも胸が痛く締め付けられる。

親と子の二人三脚のつもりが、いつのまにか大人が先行してしまう。子どもが頑張った結果を自分のものと勘違いしてはいけない。ましてや取り上げていいわけがない。玲子への非難ではなく、美典は自戒をこめて思う。

二月一日、沙優は第一志望だった自由が丘国際学院の一回目を受験し、その日のうちに不合格となった。その数時間後には、午後に受けた優華学園の合格を手にできたから、沙優はまもなく立ち直ることができたものの、その先も厳しい戦いが続いた。自由が丘国際学院中の二回目は受験生のレベルもぐっと上がるので、それに伴って問題の難易度は上がる。過去問を解いても、沙優は二回目で最低合格点を超えたことが一度もなかった。それでも奇跡を起こしてほしいと願ったが、やはり現実はシビアだった。

青明女子中も不合格だった。沙優は大泣きし、美典も一緒になって泣きじゃくった。ただ子供というのは思いのほかタフなもので、翌日の渓星大学第一中に向けて奮起した沙優は、見事に合格を手に入れた。

そして、偏差値だけ見れば優華学園のほうが高かったが、気に入っていた渓星大学第一中に進学すると沙優自身が決めた。本人はあっけらかんとしたものなのに、美典のほうが第一志望への未練を断ち切れないでいた。夏樹へ報告した時には、みっともなく泣いてしまったほどだったが、しばらくしてから、思いがけないことを沙優に打ち明けられた。

『ほんとはね、沙優、自由が丘国際より渓星大学第一に行きたかったの』

驚いた美典に、沙優は続けた。

『ママがあの学校を気に入っていたから、合格できたら喜ぶだろうなって思って第一志望にしたけど、心の中ではずっと、渓星大学第一がいいなって思ってたんだよ。ごめんね、ママ』

そんなことを沙優に思わせていたなんて、申し訳ないを通り越し、美典は自分が恥ずかしくてたまらなくなった。真翔の家出の一件で目が覚めたはずだったが、子供の受験に親の自分こそが夢中になりすぎていたのだと、改めて思い知らされた。

沙優が素晴らしい環境で六年間過ごせることが、いまでは楽しみでならない。

卒業式は時間どおりはじまり、美典は周囲に視線を走らせる。エレナの姿を探したが、見つけることができない。卒業証書の授与式がはじまり、沙優の六年一組の出席番号一番の生徒、五十音順で最初の子の名前が呼ばれる。そして次に、

「淡田類さん」
「はい!」

ずっと学校を休んでいると沙優から聞いていたので、美典はホッとする。

「類くん、元気そうだな」

そう囁く洸平に、美典は頷いた。類くんが出席しているなら、エレナもこの会場のどこかにいるのかもしれない。

「神取真翔さん」
「はい!」

壇上に真翔が上がっていく。初めてエレナの自宅に呼ばれてランチ会をした時だっただろうか。偉大な父親を持つ真翔はプレッシャーがあって大変だろうと思いながらも、どこかでそれを羨んだことがあった。母親から真っ先に大学進学費をケチられたことを根に持っていたから、恵まれた環境で進路を選べる世界にいる真翔を、深く考えもせず、いいなと思ったのだ。

でもそれは、浅はかだった。多くのものを手にしている者は、同じくらい重いものを背負っている。よく知りもせずに誰かを羨んではいけない。そんなふうにいろんなものの見方ができるようになったのも、沙優の受験を通してたくさんの景色を見たからだろう。魔物に飲み込まれたものの、悪い経験ではなかった。得たものも少なくない。中学受験という狂気の沙汰が過ぎ去った今、そう思う。

「小向沙優さん」
「はい!」

この日のために買ったグレーのブレザーに赤いリボン、青と黄のタータンチェックのスカートに身を包んだ沙優を、美典はスマホで撮影する。隣でビデオカメラを持って動画を撮っている夫が小刻みに揺れているように思って見ると、息を殺すようにして泣いていて、つられるように美典も泣けてしまう。

小学校の入学式の時には、まだ場所見知りがあって、自分の席に座りながら何度も後ろの保護者席をチラチラと見ていた。あの子が、もう中学生になるなんて。百センチほどだった背は、百五十センチを超えた。一月の受験の前日というどたばただったが初潮もあり、着々と大人への道を進んでいる。

無事に卒業証書を受け取った沙優は、壇上を下りて決められたルートを通り、自分の席に戻る。美典は席を立って手を振った。沙優はすぐに気づき、照れくさそうに笑みを浮かべてから、腰の位置で手を振ってみせる。

二月一日の朝、沙優の背中を見送った時の感情が蘇ってきた。『子供』の時間がもうすぐ終わろうとしている、この瞬間。猛烈に寂しくて、同じくらい温かなものが胸に広がる。

こんな気持ち、母親にならなかったらきっと知らなかった。

ありがとう、わたしをお母さんにしてくれて。

卒業式はつつがなく終わり、洸平は早々に仕事へ向かった。

「美典さん」

洸平に代わるようにして、玲子がこちらにやって来た。

「いい式だったね」
「ええ、本当に」
「翔一先生は? 今日もクリニック?」
「うん、午前中は診察があるから」
「翔一先生のご両親は?」
「義父も診察があるから無理なんだけど、義母は暇しているくせに来なかったわね。真翔の進学先のことで、上辺では許してくれているけど、根に持っているんでしょう」
「いいんじゃない。気にしないで」
「気にしていないわよ。むしろ、ちょっと距離ができてせいせいしてる」

玲子は肩をすくめて笑ってみせた。

「玲子さん、今日は特別に素敵ね」

真珠のボタンがついたベージュのツイードのワンピース、それにクロコのバーキンが眩しい。

「ありがとう。美典さんのそのパンツスーツもとても似合ってる」

玲子に褒められ気恥ずかしいものの、美典にしては奮発してエブールで買ったので嬉しかった。

「このパンツスーツなら、就活でも使えそうだから買ったんだ」
「就活するの?」
「派遣に登録した。これから私立中の学費を払っていかなくちゃだから。沙優が中学生になればわたしの時間もできることだし、がっつり働くのもいいかと思って」

かつて仕事と家庭の両立に苦しんで、ギブアップするようにそれまでのキャリアを手放した。その判断に後悔はないけれど、やりかけのパッチワークをクローゼットの奥にしまったままのような気持ちはずっとあった。

「じつはあたしも、夫のクリニックでナースとして常勤することにしたんだ」
「へえ、玲子さんがナース!」
「自分に自信を持ちたくなって」
「自信?」
「夫の気持ちがよそに向いたのは、あたしにも問題があったからだと思うんだ。これまで子供や義母にばかり目が向き過ぎていて、夫は二の次だった。外で働く彼の話を聞くこともしなかった。そんなふうにして、いつのまにか夫婦の間に埋められない溝ができちゃったんでしょうね」

一時は満身創痍になったかもしれない。それでも玲子も、真翔の受験をとおして得たものがあったにちがいない。

「お互い、新天地だね」
「そうね」

エレナのことが思い浮かんだ。おそらく玲子の脳裏にもここにいないもう一人の顔が浮かんだのだろう。

「類くんは来ていたね」
「エレナさん、どこからか見ていたのかな」
「まったく、もう。そろそろ出てくればいいのに。世間はもうすっかり忘れてるわよ」

憤慨したように、玲子は口を尖らせた。

「一度だけエレナさんが三人のグループLINEにメッセージをくれたでしょう。タイミングよく届いた時に開いたから、すぐに電話をかけたら出てくれたの」
「そうなの? なんて言ってた?」
「類くんの身も案じて、イギリスかスイスのボーディングに進学させたいとも言っていたけど、どうなったのかな」
「あの家ならその選択もありなんだろうけれど、類くん、あんなにも勉強してきたのに納得したのかしら」

その時、パンツスーツのポケットに差し込んでいたスマホが震えた。同じように、玲子もストラップで襷掛けしていたスマホを手に取る。

【ERENA】 上を見て

「えっ?」
「エレナさん?」

美典と玲子は顔を見合わせ、二人して顔を上に向けた。校舎の外階段の踊り場で、ベリーショートに丸い眼鏡をかけた女性がこちらを見ながら片手を上げる。大胆なイメージチェンジだが、その人が確かにエレナだとわかった。

「心配をおかけして、本当にごめんなさい。連絡をもらっていながら、返すこともできずに」

校舎の裏の奥まったところで三人になると、エレナは深々と頭を下げた。

「エレナさん、そんな」

美典は制したが、

「本当よ! 心配したんだから!」

玲子は怒ったように言ってから、「って言いながら、あたしも自分のことで精一杯だったのよ……こちらこそごめんなさいね」とエレナに謝った。

「とんでもない。二人こそ、お疲れ様だったわね」
「どう、少しは落ち着いた?」

美典が訊くと、ええ、とエレナは表情を緩めた。

「時間があったから引越しもしたのよ。ようやく落ち着いたところ」
「引越したの? どこに?」
「広尾。類が中学校に歩いて通えるところにしたの」
「広尾ってことは……類くん、もしかして麻見谷中に?」

玲子の言葉に、エレナは頷いた。

「すごい! 類くん、第一志望に合格したんだね!」
「さすがだわ! おめでとう!」

美典と玲子が喜ぶと、ありがとう、とエレナは感極まったように口に手を当てた。

「類にはずいぶんと迷惑をかけてしまって、挙句、わたしの勝手な都合で海外の学校に進学させようと考えていたんだけど、大反対されたの。いい加減にしてくれ、ママのスキャンダルにこれ以上巻き込まないでくれって。怒ることのないあの子に大声で怒鳴られ、本当の意味で目が覚めた。自分がどれだけ傲慢だったか、やっと気づけた。いつも淡田に見下されているように感じていたの。誰かに自分を認めてほしかった。でも大っぴらにできないから、類を利用するようにSNSで……」
「エレナさんは有名人だからあんなに大事になってしまったけれど、誰だって程度の差こそあれやっていることよ。あたしだってネットの掲示板に書き込んだことは一度や二度じゃない」
「そう言ってくれてありがとう、玲子さん……」
「真翔はね、慶應の三校を受けたけどすべてダメだったの。幼稚舎を受けていないって言ったけど、じつは受験したけれど不合格で、それからは中学受験で慶應リベンジの一心だったのよ」
「翔一先生が優秀だから、それなりのプレッシャーはあると想像していたけど……玲子さんも大変だったわね」
「自分で大変にしていたんだと思う。真翔は目黒工大に入学することになったんだけど、その進路も、あたしの一方的な気持ちで絶ってしまうところだった。あの子をもう少しのところで……失ってしまうところだった」

玲子は言葉を詰まらせ、エレナに打ち明けた。

「たかが中学受験なのにね。志望校に入れなかったらそこで人生が終わってしまうように感じていたし、子供にそう感じさせていたのかもしれない」

美典の小さな呟きに、玲子は頷く。

「まだ十二年しか生きていない子に、していいことじゃなかった」
「わたしたちも、まだ人生の半ばってことね」

エレナが指先で目元を拭うのを見て、でもさ、と美典は明るい声を出す。

「間違うことはあったけど、間違ったことに気づけただけ、ましだってことにしようよ」
「美典さんのそういうところ、救われるのよね」

泣き笑いの玲子に言われ、そういうところ?と美典は訊き返す。

「軽い、とも違うんだけど」

エレナは言葉を探すように首を傾げた。

「なんていうか、学生みたいなポジティブさ?」

玲子の言葉を合図に、それぞれバッグをまさぐると、ラミーの万年筆を取り出し、弾けたように笑い合った。

「時間ある? ランチでもしない?」

美典が提案すると、いいわね、とエレナは親指を立てた。『バディーズ』のあの席が空いているか聞いてみるわ、と安定の光の速さで玲子がスマホで店に電話する。

この日が来るのをずっと待っていた。

母親ではない、ママ友じゃない。ただの女同士として。学生の時にそばにいた女友達のように、どうでもいいようなことや、どうでもよくないようなことを時間を忘れるくらいに語り合える、そういう時間を。

「あの席、空いてるって!」

親指と人差し指で丸を作る玲子に、やったー、と美典とエレナの声が重なった。

「話したいことがいっぱいだよ」

美典は二人を交互に見て歩き出す。

「エレナさんも大変だったけれど、こちらも離婚の危機だったのよ」

玲子がそう言うのを聞いて、エレナが目を丸くする。

「何それ、どういうこと?」

思わず大きくなったエレナの声に、校庭の子供たちの笑い声が重なった。

頭上の大きな雲が動いて、春めいた光が差し込む。

風が吹く。先走って咲いている桜が花びらを散らす。

ピンク色に染まる道を歩く三人の足並みは、自然と揃っていた。

終わり

イラスト/緒方 環 ※情報は2026年3月号掲載時のものです。

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