泣きそうに忙しい40代の日々に、「極上のひとり時間」を。【作家・山内マリコさんエッセイ】
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仕事が終わって、母に戻るまでの2時間に気持ちを切り替えて
彼女は誰だろう? 夕暮れ時のカフェでひとり、街ゆく人を眺めているあのひとは。彼女は誰だろう。午後五時半の映画館に駆け込んでゆく、髪の長いあのひとは。彼女は誰だろう。ヒールに履き替えて赤いリップを引き、開店したてのバーに吸い込まれていった背の高いあのひとは。
平日の午後に優雅なもんだなぁと、すれ違う人は、妬み半分に思うかもしれない。ひとりの時間を心底楽しんでいる、この一瞬だけ切り取れば、たしかに彼女は優雅だ。
けど実のところ、彼女たちはとても忙しい。仕事をこなしながら家庭を切り回す、その日常はとてつもなくハードだ。ひとりで二人分の働きをして、いつも時間のやりくりに追われている。テトリスみたいに予定を一気に消化したり、不意に降ってくる用事をどこかへ組み込んだり。まったく息つく暇もない。〝ワーク〟と〝ケア〟の間で、彼女たちはあっぷあっぷしてる。
なぜこんなに忙しいかって? だって彼女たちにはたくさんの役割があるから。彼女たちのバッグの中にはいくつもの仮面が入っている。ママとして、上司として、部下として、妻として、ママ友として、ご近所さんとして、それから娘としての役割も背負う。
彼女たちはとても器用に仮面を付け替えながら、日々綱渡りしている。ありとあらゆるタスクを同時進行で処理し、頭の片隅では次の動きの準備に余念がない。なんという目まぐるしい毎日。ああ、そんなだから彼女たちは、仮面を外して、ただの自分に戻れる時間を、いつも心の底から欲しているのだ。
泣きそうに忙しい日々のさなかに、ほんの少しだけ、自分自身に還るひととき。誰でもない自分になって、空っぽになって、息をつく。心をリセットする。この時間のかけがえのなさを、彼女たちは知っている。
もしかすると時間は、「少し足りない」くらいが、ちょうどいいのかもしれない。あり余る時間はかえって毒にもなるから。無為な時間はむしろ苦しい。虚無に襲われないよう逃げ回らなくちゃならない。彼女たちの毎日は、そんな隙なんてどこにもないくらい、バタバタしてるし、立て込んでる。でもだからこそ、このひとり時間は極上の贅沢として、彼女たちの心を潤すのだ。
彼女たちは知っている。いつかこの忙しない日々を、なんて幸せだったんだろうと、振り返ることになると。家族に必要とされ、仕事で頼りにされ、自分がいなくてはなにひとつ回らない。そんな時間は、長い目で見れば人生に、ほんの一瞬しかないのだ。
彼女たちは今を慈しみながら、カフェの窓辺でぼんやりしたり、映画館でうたた寝したり、バーでカクテルを一杯、くいっと飲み干したりしている。くるくると回転をつづける回し車からひょいと降りて味わう、つかの間の休息。その至福をぎゅっと噛み締め、英気を養い、彼女たちはまた忙しさの中へ、そっと歩みだす。
文・山内マリコ
小説家。1980年生まれ。同世代目線で現代女性のリアルをすくい取る作風が人気。
チュールトップス¥26,400パンツ¥44,000(ともにアドーア)バッグ¥317,900パンプス¥141,900(ともにロジェ ヴィヴィエ/ロジェ・ヴィヴィエ・ジャパン)ネックレス¥27,500バングル¥19,800(ともにメラキ/フラッパーズ)
撮影/西崎博哉(MOUSTACHE) モデル/蛯原友里 ヘア・メーク/NAYA スタイリスト/三好 彩 取材/石川 恵、田中千紗絵、秋本秋世 撮影協力/AUX BACCHANALES 銀座 ※情報は2026年7月号掲載時のものです。
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