「5年先の目標はない」世界的デザイナー【芦田多恵】さんが語る、 目の前のことに精一杯だった35年
「素敵なご縁を引き寄せる服」としてSTORY読者にもファンの多い、「jun ashida 」「TAE ASHIDA」。デザイナーの芦田多恵さんは、ロイヤルファミリーやファーストレディをはじめ、各界の著名人を顧客に持ち、昨年、その功績が讃えられ文化庁長官特別表彰も受賞されました。2018年に創業者であり、デザイナーの芦田淳さんから引き継ぎ「jun ashida」のクリエイティブディレクターに就任。デビュー35周年を迎え、ますます活躍の場を拡げている芦田さんをインタビュー。どのように育ち、デザイナーとして成功を収めるに至ったのか?お話を伺いました。
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「運動会と美術だけはいい成績を取りなさい」が父の教え
小さな頃から絵を描くことが好きだった私。姉がそういうことにはあまり興味がなかったようで、なんとなく自然な流れでデザイナーの道を志すようになりました。小さい頃は父からは仕事場は大人の戦場だから来てはいけないと言われていて、ほとんど足を踏み入れることはありませんでしたね。仕事ではものすごく厳しい人でしたから。ただ、ひとたび家に帰ると本当に子煩悩な父なんです。
面白いことに芦田家では成績は良くなくてもいいから、運動会と美術だけはいい成績を取りなさいと。小学校の運動会の時も、保護者席からはみ出て応援しちゃう名物お父さんで、私が卒業するときには先生方が父に会えなくなるのが一番寂しいなんて仰っていただきました。中学に上がってバスケ部に入りたいと話したら「バスケのクラブは土日に練習試合があったりして一緒に過ごせなくなるからやめてくれ」なんて言われたりも(笑)。
父から教えられたことは、とにかく感性を磨けということ。アメリカの美術大学に入学し美術史を本格的に学ぶ授業があったときに父に報告したら、「夏休みに美術館を巡ろう」とイタリアに連れて行ってくれました。父も忙しかったでしょうに、そういう時間を惜しみなく与えてくれたように思います。
母の「じゃあ辞めれば?」という言葉が、自分を奮い立たせるきっかけに
父からは「洋服の作り方は学校で学べばいいんだよ」と言われていたので、それを信じて疑わずにいたら、大学2年生の最初のスカートのパターンを引く授業で、パニックに陥りました。日本語ですら理解できないのに全て英語の専門用語、生地に縦と横があることすら知らず、何が何だかさっぱり分からない状態。
一人でシクシク泣きながら何回も作り直し、あまりの辛さに母に電話をかけたところ、「あ、そう。それはちょっともう無理だから、あなた辞めて帰ってくれば?」と冷たく言い放たれたんです。もうすごく悔しくて!弱音なんかもう吐かないと自分を奮い立たせたように思います。
後から聞いた話ですけれど、かわいそうにと思うだけじゃなく、しっかりやりなさいと檄をとばすことで、負けず嫌いな子だからきっとやるはずと信じてくれていたようでした。ネット環境なんて皆無、今と違って国際電話も簡単ではない中、距離のある私を相当心配していたみたいですけれど…それもひとつの母の愛だったのかもしれません。
がむしゃらに頑張った大学時代が今の自分を形作っている
その母の作戦通りに(笑)大学に通い続けたのですが、私が入ったロードアイランド造形大学はものすごくハードで、1年生の1学期のうちに全体の1/3がドロップアウトするくらい!スカートのパターンで泣いている場合じゃなかったんですよ、本当に。絵を描くのは得意だったので、ある程度は自信があったものの、同級生はデザイナーだけでなく建築家など、さまざまな分野を志す才能であふれており、課題も多岐に及び…1日4時間の睡眠でも足りないくらい壮絶な日々を過ごしました。
ただ、その分多くの学びも得ました。何かを表現するときにはその本質を理解すること、そして今でも一番役に立っていることは。プレゼン能力が向上したこと。その時代、日本ではアーティストは言葉で説明しなくても作品を見れば全てを物語っている…そんな時代だったのですが、大学では、自分の作ったコンセプトを自分の口で説明できなければどんなに素晴らしい作品でもその価値は半分だと言われていたんです。アートという不透明なものを明確に言語化することは、その4年間で叩き込まれましたし、その経験が今に活かされています。
突然ブランドデビューが決定、ショーの後に継続することの重みを感じました
20代をターゲットにした媒体で誌面連載を任されることになり、父から「実績も知名度もない状態なのに連載を組ませてもらうなんて申し訳ない!来シーズンからデビューだ」と言われたのが、大学を卒業し、「ジュンアシダ」に入社して3年を経たとき。(え?そんな突然?)と思いつつも、「miss ashida collection」を発表しました。母は胃潰瘍になりかけるくらい心配していましたけれど、私は周りから心臓に毛が生えているって言われるぐらいで…(笑)ショーの打ち上げが終わった後、父から「どう継続させるかが一番大切で一番難しい」と言われたときに初めて、その怖さに気付きました。私たちのブランドは父の方針で年2回必ずコレクションを発表しています。それを絶やさず続けることの厳しさ。そして、足を運んでくださる方々にいかに楽しんでいただくか――。かつて父から授かったその教えの重みを、今、あらためて深く噛み締めています。
ピンチはチャンス!そして常に運が味方をしてくれる
長年継続したショーも、東日本大震災の年は開催を見送りました。全てが出来上がり、あとはお披露目するだけ…という段階。父は瞬時に決断するタイプの人でしたが、あのときだけは迷っていましたね。迷いに迷って、ファッションで気持ちを明るくしてもらいたいという願いを込めてコレクション動画を配信しました。今でいうバーチャルコレクションです。
コロナ禍でファッションショーをストップした年もありましたが、2022年は密を避けて国立競技場で開催に踏み切りました。国立競技場のトラックをランウェイに、小室哲哉さんをスペシャルゲストにお迎えしライブ演奏をしていただくことに! そのすべてが、予期せぬ美しい糸で繋がっていたかのように感じられます。
(ダメかもしれない)と思うことがあっても、なぜか結果的にうまくいくことが多いのです。考えてみたら、私、小さな頃から母に「あなたは運の良い子」と育てられてきたんですよね(笑)。本当かどうかわかりませんが、自分でも運がいいと思ってきた節はあるのかもしれません。全て周りで支えてくださる皆様のおかげだと感謝しています。
将来の展望なんて考えたことがない
世界のメゾンでは、社内にアトリエを持つブランドも年々少なくなりつつあります。顧客をお呼びする大規模なショーを毎シーズン開催するブランドも世界にはないと驚かれもします。父から受け継いだ普遍的なもの、いまを生きるために革新的にすること、不安な時代だからこそ、何が一番必要で、何が一番人の心に響くものかを常に考えています。2026年秋冬のテーマは『LOVE』。戦争もあったり、悲しい事件も多く、先行きが見えない今、必要とされるものが愛。必ずしも温かいラブだけではなく、人間であれば、いろんなラブを人生のうちに経験すると思うので、コレクションの中であらゆるラブを表現しています。
将来の展望…目の前のハードルを飛び越すのが精一杯で、5年後や10年後の目標なんて思ったことがないんです。ただ、洋服は一番皮膚に近いところにあって、人が敏感に感じるところでもあるので、せめて自分が作るものに関しては血の通ったものにしたいと思っていますし、周りのスタッフも同じ気持ちでいてくれているのが本当にありがたいです。
Tae Ashida プロフィール
スイスのル・ローゼイ高校を卒業後、アメリカのロードアイランド造形大学アパレルデザイン科を卒業、芸術学士号を取得。 1991年にコレクションデビュー。以降、年2回新作を発表。2012年第54回FECJ特別賞受賞。 2018年に父・故芦田淳を引き継ぎ「ジュンアシダ」のクリエイティブディレクターに就任。メゾン創立当時から常にクオリティの高いものづくりをポリシーに掲げ、“エレガント&プラクティカル”を コンセプトに、革新的に変動の時代を駆け抜けている。 2019年メンズコレクションをローンチ。ロイヤルファミリーやファーストレディをはじめ、各界の著名人や俳優などを顧客に持ち、エレガントでモダンなモードを提案、 東京のファッションシーンを牽引する。 令和6年度文化庁長官特別表彰を受賞。2026年デビュー35周年を迎える。
撮影/田中駿伍 取材・文/竹永久美子 構成/玉榮日菜子
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