27歳で3人目出産直後にクモ膜下出血に。母は子どもたちとどう向き合う?

27歳で第三子となる三女を出産。しかしその9日後クモ膜下出血で生死の境を彷徨った青栁愛花さん。突然の入院で母親不在の家はどうなるのか。家事・育児も思うようにできない葛藤、夫・子どもたちへの思い。突然の出来事にご自身はどう向き合ってきたのか伺いました。

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※VERY2023年1月号に掲載された記事を再編集したものです。

Profile
青栁愛花(あおやぎあいか)さん

千葉県野田市生まれ。7歳、6歳、1歳の女の子のママ(年齢は取材当時)。第三子出産から9日目、クモ膜下出血を起こし救急搬送。奇跡的に一命を取り留めるが、左手足に麻痺が残りリハビリを続ける。若くしてクモ膜下出血となった体験談を発信するべくインスタでも発信。

 

大好きな家族の中で、娘たちもスクスク成長中。

 

出産9日目にクモ膜下出血、3カ月間ママ不在の生活に。

昨年9月(取材当時)、私は27歳で第三子となる三女を出産。しかしその9日後、クモ膜下出血で生死の境を彷徨いました。今回も安産でしたが、異変は退院から3日目。いつもなら薬を飲んで少し休めばおさまるところ、頭痛がなかなか治らない。それでも上の2人の娘たちのお世話に新生児が加わり、連日寝不足だったので仕方がないと思っていました。ところがそれから3日経つ頃、頭が割れそうな痛みで夜も我慢できないほどに。朝になり〝これはマズイかも……〟と実家の母に電話。頭痛がひどいくらいで救急車を呼んでいいものか躊躇していた私に「そんなに痛いなら呼んだほうがいい」と促してくれて、九死に一生を得ました。遠のく意識のなかで思ったのは、生まれて間もない新生児を安心安全に誰かに手渡したいということ。今思えばその道のプロの方たちなのに、救急隊員さんはこの子の首がまだグニャグニャだということに気づいてくれるかな……と心配で。娘を救急隊員さんに引き渡したのを見届けて、それ以降記憶はありません。

 

医師から「覚悟はしておいてください」と

出血の場所、出血がじわじわと広がるタイプだったこと、搬送のタイミングが早かったことなどが重なり、どうにか命を取り留められたことは奇跡だと思っています。それでも2週間は何が起こるかわからない、覚悟しておいてくださいと医師から伝えられた夫、両親たちには本当に心配をかけてしまいました。意識がはっきりと戻ったのは搬送から10日目。コロナ禍で最初は夫にだけ会えたのですが、倒れる前日の就寝時に頭痛を訴えていたのに、いつもの片頭痛だと思い「冷えピタシートでも貼っておけば?」と返してしまったことを悔やみ、泣いて謝り続ける夫。私はこの人のためにも元気にならないといけないと思いました。

 

≫≫ママが突然倒れたら、子どもたちや家のことはどうなる?

新生児から小学生まで3人の子の育児は……?

目覚めて気になったのはやはり子どもたちのこと。自分に何が起きたのかはわからなかったけど、夫の顔を見るや否や「子どもたちは元気なの?」と思わず聞いていました。「ちゃんと学校に行って、両親たちにご飯も食べさせてもらっているから大丈夫だよ」と聞き安堵したのを覚えています。上の2人は、小学校1年生と年中さんでした。新生児を含む3人の子どものママが何の前触れもなく倒れ、入院してしまったことで、家はパニックになったことは想像に難くありません。「大好きなママが急にいなくなった。まだ病名や命の危機があることは理解できないかもしれないけれど、大人たちの表情や動きを繊細に察知してきっと大変なことが起きていることはわかっていると思う」。

 

全力でサポートしてくれた家族

夫、双方の両親が話し合い、子どもたちには変わらない生活をさせようということを決めてくれたようで、上2人は私の実家、三女は夫の両親にみてもらうことになったそうです。私の母は、小学校、保育園にそのまま通えるよう娘たちを毎日朝夕車で送迎。その時間調整のため、長女は学童を利用。また、子どもたちの気持ちを紛らわすため、土日は公園に二人乗り自転車を乗りに出かけたり、ハロウィンパーティ、クリスマスパーティとたくさんのイベントを用意してくれたりしたようです。義母は三女のお世話のため休職してくれ、後にお礼を伝えると「まさか何十年ぶりに新生児のお世話ができるなんて」と言ってくれましたが、夜も2時間ごとに起きる新生児のお世話はものすごく大変だったと思います。両家の助けもあり、夫はそれまで通り仕事ができ、私が戻ってきた後の生活基盤を見据えて家を守ってくれていました。どんなに疲れても仕事帰りに、まず私の実家に寄って上の子たちとご飯を食べ、遊んで過ごし、今度は自分の実家に帰宅し三女のお世話をバトンタッチ。そんな生活を退院するまでの約3カ月続けてくれました。

入院中は子どもの様子を知ることができる写真やインスタが励みでした。

 

≫≫歯磨きや洗顔さえうまくできない。葛藤に苛立ち……

 

何もできなくなったと嘆く
私が気付いた家族の存在

リハビリは早ければ早いほど良いそうで、意識が戻ってからは即開始しました。最初は「ママ死んじゃうの?」と不安な顔を見せていた長女。学校では気丈にしているけれどやっぱり無理しているように見えると担任の先生に言われながらも、1日も休まず小学校に通っていると後になって聞き、私はリハビリだけに集中することができました。私なりにもの凄く頑張ったつもりです。でも、麻痺というのは、それを摑みたいのに摑めなくてもどかしいというより、自分の手足の存在を忘れてしまう感覚。自分の手足なのに、じっと見つめながら「動け~」「動け~」と念力を送っているような感覚でした。頑張っても急に良くなるわけではなく、心が折れることもありました。歯磨きがしたくても歯ブラシに歯磨き粉さえつけられない。洗顔するにも洗顔フォームも出せない。化粧水はボトルからどう出す? 全てつい最近まで当たり前にできていたこと。過去の自分や、励ましてくれる夫や看護師さんたちにさえ嫉妬してしまいました。あなたたちはできるじゃない? って。

 

三女を出産前、今度の産休中は家族のために時間を使って、子どもたちといっぱい遊びに出かけたり、手の込んだ料理を作ったり、掃除を頑張ったり家のことをやって、夫や子どもたちが居心地の良い家にしたいなと思っていたんです。でもそんなことすらもうできない……。それに三女を抱っこできたのは数日。もうおっぱいも止まってしまったし、何もしてあげられない。ごめんね、ごめんね……と自己嫌悪に陥っていました。

 

両親のコトバ……
リハビリを1日ぐらい休んだっていいんじゃない?

 

そんなささくれたった気持ちをぶつけられるのも家族でした。母は「十分頑張っているんだから、リハビリ1日くらい休んだっていいんじゃない?お母さん、先生に電話してあげようか?」なんて、娘何歳だと思っているんだよ〜と思うようなことを言ってくれたり、夫は「生きていてくれているだけでいい」と言ってくれたり。家族って何かをしてあげたから何かをしてもらえるのではなく、いてくれるだけで十分満たされるんだと思いました。入院中、初めてお見舞いに来てくれた長女に言われた「ずっと一緒にいようね」というコトバ。これに尽きる気がします。この家族、誰ひとり欠けないようにしたい。

 

お世話になりっぱなしの両親。父は「何も心配しなくていいから」と生活の基盤を守ってくれました。

 

≫≫「左手足が動かなくても大好きなママには変わらないよ」

 

今では走れるまで回復
リハビリは月1で継続中

“子育てを含め、日々の生活を自分でできるようになる”という目標はまだ達成できていなかったものの、年末に退院。年末年始を家族と過ごしたかったんです。自由に動かなくなった手足、脳の後遺症でものを覚えられなかったり、言葉が上手く出てこなかったり、以前とは明らかに違うのに、子どもたちはそんなことは気にせず、スッと受け入れてくれました。それは「左手足が動かなくたって、大好きなママに変わらないよ」と言ってくれているようで嬉しかった。その後もリハビリを続け、今でも左手の自由は戻らないものの、通常の生活は工夫しながらできるようになり、足は走れるまでに回復。

 

娘たちのコトバ……
左手足が動かなくたって大好きなママに変わらないよ

 

まさか20代の自分がクモ膜下出血になるなんて思いもしませんでしたが、実際その経験をしてしまうと、明日があること、仕事・学校に行った家族が無事に帰ってくる保証なんてどこにもないことを深く理解します。だから、家族とたまにケンカをしたり、子どもに怒ってしまうことがあるけれど、その場で謝ったり和解することを心がけるようになりました。「いてくれるだけで嬉しい」そんなことを子どもたちにも伝えられるよう、かけがえのないこのファミリーを守っていきたいと思っています。

 


子どもたちをムギュッとハグしたくて、リハビリ目標を立てました。

 

 

青栁さんのHISTORY

1.すでに社会人の妹2人と弟1人がいるきょうだいの長女として生まれました。退院時は全員で迎えてくれました。2.父の測量会社で勤務。現在は後遺症もあり退職。3.父の会社の社員だった夫と入籍。実は再婚同士なんです。4.第三子を妊娠。妊婦生活も出産も今までで一番順調で、まさかこの後そんなことになるなんて思いもしませんでした。5.昨年(当時)9月、クモ膜下出血を発症。動かなくなった左手足の機能を取り戻すリハビリは想像以上に辛いものでした。6.急性期病院からリハビリ病院に転院する途中に実家に立ち寄ったとき三女を抱っこ。

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撮影/吉澤健太 取材・文/嶺村真由子 編集/城田繭子